コーラン第17章アル・イスラー章夜の旅(2)
今回も前回に引き続き、コーラン第17章アル・イスラー章夜の旅を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
まずは、第23節と24節をお聞きください。
「汝の主は、神以外を崇拝してはならず、両親に孝行するよう命じられた。もし両親のどちらか、あるいはその両方が汝の許で老齢に達しても、彼らを侮辱したり、邪険にしてはならず、彼らと丁寧に敬意を持って話すがよい。また、優しい気持ちで、両親に対して謙虚さの羽を垂らし、言え、『神よ、彼らに慈悲を授けたまえ。子供の頃、彼らが私を育ててくれたように』」
イスラムでは、唯一神信仰があらゆる善い行いの基盤となっています。それについてコーランは、両親に対する孝行を強調し、数多くの節の中で、親孝行を、唯一神信仰や神への服従とともに述べています。親子の愛情に基づく絆は、非常に貴重な関係であり、社会の存続は、それにかかっています。そのため、神は、親孝行と、育ててくれた親への感謝を特に強調しているのです。コーランによれば、両親は、たとえ不信心者であったとしても、尊敬すべき存在です。
アル・イスラー章の第23節と24節では、子供は両親を大切にし、彼らに敬意を表すべきだと述べられています。また、老齢に達した際について、次のように語っています。「両親のうちの一人、あるいは両方が老齢に達しても、彼らに少しでも侮辱的な言葉をかけてはならない。彼らへの愛情を惜しんではならない。また、彼らに対して大きな声を出さないように。優しく慎重な言葉で寛大に話なさい。彼らに対して謙虚でありなさい。そして、『神よ、彼らに慈悲を与えてください。幼い頃に彼らが私を育ててくれたように』と言いなさい」
ある日、年老いた父親が預言者に向かって言いました。「私はかつて、財力も力もあったため、子供を助けていました。でも今、子供は金持ちになったのに、私を助けてくれません」 預言者は涙を流して言いました。「何と残念な話だろう」 それから、その子供に向かって言いました。「あなたとあなたの財産は、父親からのものだ」 コーランは、このような優れた教育方法により、両親へのわずかな侮辱をも許さないのです。
アル・イスラー章はその後、親戚、恵まれない人、旅の途中で困っている人を助け、それにおいて、節度を守るよう述べています。コーランの節では、中庸さ、節度を守ることが強調されています。アル・イスラー章の第29節には次のようにあります。
「[出し惜しみをして]自分の手を首に縛り付けてはならない。また、後悔に苛まれながら、[家に]こもることになるほど、両手を完全に広げてもならない」
この節にある、「自分の手を首に縛り付けない」という表現は、首に手が縛り付けられ、施しや支援を行えないような、けちな人間であってはならないという意味です。その一方で、両手を広げすぎて、自分が困るようになるほど、闇雲に施してはなりません。時に、限度を超えた施しは、人間を無力にし、人間が活動を続け、生活を整えるのを妨げてしまいます。
ある日、預言者ムハンマドの家に、物乞いがやって来ました。預言者は施す物が何もありませんでしたが、物乞いはシャツを求めました。預言者は、自分の唯一のシャツを彼にやりました。しかしそのために、預言者は、その日、礼拝のためにモスクに赴くことができませんでした。そのとき、この章の第29節が下され、唯一のシャツを人にあげるのは、ふさわしくないというメッセージを与えました。
不義や不当な殺害を避けること、孤児の財産を使わないこと、売り物の量をごまかしたり、高慢になったり、といった行動を避けること、これらは、この先の節で語られている事柄です。第33節には次のようにあります。
「神が殺害を禁じ[、尊いものとし]ている人の命を不当に奪ってはならない。誰でも不当に殺害される者には、まことに我々は、その保護者に[報復の]権利を決めさせる。だがその人は、権利以上を求め、殺害や報復に対して限度を超えてはならない。なぜなら彼の保護者は限度を超えない限り、神の加護を受けているからである」
人間の命を尊重することは、すべての啓示宗教や人類の法が注目している問題ですが、イスラムはこの問題を特に重視しており、コーラン第5章アル・マーイダ章食卓では、一人の人間を殺すことは、すべての人間を殺すことに等しいとされています。そしてもし誰かが不当に殺人を犯せば、殺された人の血が尊重され、その保護者には報復刑が許可されます。この節によれば、罪もないのに誰かが殺された場合、その保護者は報復刑を求める権利を持ちますが、同時に、その権利以上のことを求めたり、殺害において節度を越えてはなりません。殺された人物の保護者は、自らの領域を越えなければ、神の助けを得られます。
あらゆる社会では、様々な出来事のために、孤児が生まれます。彼らは人間性の側面から、社会の善を求める人々の保護の元に置かれることが望ましくなっています。そのため、イスラムは、この問題を特に重視しています。アル・イスラー章の第34節では、すべての人に、孤児の権利や財産の侵害を禁じています。この節はまず、孤児の財産を保護することの重要性を挙げ、次のように語っています。
「孤児の財産に近づいてはならない」
孤児の財産を使ってはならないだけでなく、それを大切にして近づいてはならないとしています。しかし、それが無知な人々の口実となり、孤児の財産が放り出され、様々な出来事に委ねられてしまう恐れがあるため、その後でその例外が述べられています。
「ただし、最高の方法である場合は別である」 このように、孤児の財産を保持したり、増やしたり、それが減ってしまうのを防ぐために、自分の財産を守る力のない孤児たちが、成人に達し、自分の財産を守ることができるようになるまで、孤児を助けることが許可されています。
第39節から先は、唯一神の信仰と多神教信仰の否定に関して述べられています。その後、神の偉大さを証明するために、世界のすべての存在物が、至高なる神の性質を称賛する問題に触れ、第44節には次のようにあります。
「7つの天と大地、そしてそこにある全てのものは、神を讃える。すべての存在物は、硝酸によって神を褒め称える。だがあなた方は、彼らの賞賛を理解しない。まことに神は、忍耐強く寛容な方であられる」
コーランは数々の節の中で、創造世界の存在物の神への賞賛について語っていますが、その中でも最もはっきりと述べているのは、「天と大地、惑星や人間、動物、すべての世界の存在物が、例外なく、神を称賛している」とする、この節だと言えます。言い換えれば、創造世界が一斉にそれを囁いているのです。あらゆる存在物は、それぞれ独自に神を称賛し、世界の至るところで、神を求める叫びが聞こえています。しかし、無知な人々にはそれが聞こえません。一方で、心に信仰の光をともしている人々は、その声を魂によって聞いているのです。
賞賛とは、あらゆる欠点を免れていることを意味します。創造の驚くべき秩序は、この世界の創造主である神には、何の欠点も欠陥も存在しないことを物語っています。創造物は、心の叫びにより、神の無限の知識や力、包括的な英知など、神の優れた性質について語っています。
アル・イスラー章の第78節には次のようにあります。
「太陽が中天を過ぎて傾き始めたときから、夜の暗闇が訪れるまで礼拝を行いなさい。また朝の礼拝も。朝の礼拝は観察されている」
この節と次の節は、礼拝と唯一神への注目、崇拝の問題を取り上げています。それらは、多神教信仰と戦うための力を与え、悪魔の誘惑から解放されるためのきっかけになるものです。礼拝は人間の神のことを想い起こさせ、罪という穢れを人間の心や魂から拭い去ります。礼拝は、精神衛生に多くの影響があり、あらゆる罪や醜さを防ぐものとなります。第78節と79節は、5回の礼拝のだいたいの時間について触れていますが、その正確な時刻や詳細については触れていません。しかし、他の節や伝承では、5回の礼拝の時刻が明らかにされています。
コーランの重要性については、アル・イスラー章のいくつかの節の中で述べられています。この章の第82節は、コーランが人間の精神の健康におよぼす重要な役割に触れ、それは個人や社会の混乱を癒すものだとしています。
「コーランから下したものは、敬虔な人々にとって、慈悲と癒しの源になる。だが圧制者にとっては、損害を増やすだけである」
実際、コーランは、人間の思想的、道徳的なあらゆる病を取り除いてくれます。コーランの至高なる教えを受けた人々は、人間的な美徳を身につけるのです。