しあわせの隠れ場所 2
この時間も、前回に引き続き、ハリウッド映画「しあわせの隠れ場所」についてお話ししましょう。
しあわせの隠れ場所は、ジョン・リー・ハンコック監督による2009年のハリウッド映画です。
前回の番組でお話ししたように、この映画は、NFLのマイケル・オアー選手のエピソードに基づいた実話です。マイケルは、貧しい黒人の家庭に生まれました。アメリカ社会の有色人種に対する差別により、マイケルは、アメリカンフットボールに適した体格を持ちながら、その能力を発揮することができませんでした。しかし、白人の裕福な家族、テューイ一家と知り合いになり、この家族の援助を受けて、学業とスポーツを続け、奨学金を得てミシシッピー大学に進学します。そしてのちに、アメリカンフットボールのスター選手になるのです。
リー・アン・テューイと夫のショーン・テューイは、マイケルのために車を買います。幸せの隠れ場所の66分から始まるシーンでは、マイケルとテューイ家の息子であるSJが車に乗っていますが、注意を怠って事故を起こしてしまいます。
警察から、事故の知らせを受けたリーアンは、急いで現場に向かいます。
警察が、事故の現場を調査したことを伝えると、リーアンは、彼らは自分の子供だと伝えます。そして、子供たちのそばに行き、最初にマイケルのことを見つめ、けがはないかと尋ねます。マイケルは、SJを見てやってくれと言い、リーアンはSJのところに行きます。SJは、血を指して、これは自分の服から流れていると思うかと尋ねます。リーアンは、おどけた調子でそう思うと答えます。警察は、リーアンに向かって、エアバッグは時速200マイルで作動することを説明し、あなた方の息子は助手席に座るには少し幼すぎると言います。リーアンは、とにかくSJは無事だったのだと言います。警察は、唇が切れて顔にはあざができているが、普通だったら、幼い子供はエアバッグで骨折することもあるのだから、本当に幸運だったと言います。リーアンはマイケルのところに行きます。マイケルはうつむいたまま、顔を上げようとしません。カメラは近くから、2人の様子を捉えています。
リーアンは、SJは大丈夫だと伝え、事故は誰にでも起きる可能性があるのだから、今回のことはあなたのせいではないと言います。マイケルが顔を上げます。自分を責めているマイケルの表情が見て取れます。リーアンは、彼の腕のけがを見て、どうしたのかと尋ねます。マイケルは、エアバッグからSJをかばったときにできた傷であることを伝えます。
このとき、リーアンは、なぜSJがエアバッグによってけがをしなかったのかを悟ります。マイケルが自分の腕でSJをかばったからでした。
このシーンでは、黒人のマイケルが、救世主のように白人のSJの命を救います。リーアンは、事故のことでマイケルを責めたりはしません。事故はすべての人に起こることだと考えています。このシーンでは、黒人と白人が互いに支えあっていることを示しています。監督は、リーアンとマイケル、そしてSJの互いに対する愛情を示すため、2人のシーンで彼らの距離を近く、同じレベルであるように見せようとしています。
映画しあわせの隠れ場所の120分から始まるシーンを見てみましょう。このシーンでは、マイケルがリーアン、そしてショーンとともに、ミシシッピ大学で登録を行っています。テューイ夫妻とマイケルの家庭教師のスーは、この大学の登録を終えてメンフィスに戻ります。途中でリーアンの回想のシーンになります。それはある新聞記事についてでした。
その記事とは、数日前の新聞に載っていた黒人少年についてでした。この少年は父親がおらず、児童保護センターのような場所で暮らしており、ギャングとの抗争で殺害されてしまいました。記事の最後には、この殺された少年の運動能力について語られていました。この少年は、まったく違う人生を送っていた可能性もあったのでした。少年は21歳でした。殺されたのは、彼の誕生日でした。
このシーンでは、マイケルと、殺された少年の映像が繰り返し流され、マイケルも、支援がなければ、この殺された少年と同じような運命をたどってい可能性もあったことが強調されています。
この映画で起こる出来事や、登場人物の行動から、黒人は本質的に能力や知性が足りないのではなく、政治、経済、社会的な差別により、黒人の能力が発揮されていないことを示しています。
映画「しあわせの隠れ場所」は、黒人の野蛮性の原因は、彼らが市民団体や統治体制から十分な支援を得られていないことや不適切な生活環境にあることを示しています。黒人は本質的には悪い人たちではなく、その環境が、彼らの進歩に適切ではないこと、もし環境が整えば、スポーツをはじめとするさまざまな分野において、独自の能力を発揮することを、この映画は伝えようとしています。
しあわせの隠れ場所では、白人の黒人に対する2種類の対応が描かれています。彼らを受け入れるか、受け入れないか。そして最終的に、黒人を市民として、家族として、学生として受け入れる考え方が見られます。マイケルは貧しい町で育ち、住む家も金もないためにそのような生い立ちに陥っただけであり、黒人は、肌の色や人種のために犯罪者になるのではありません。
実際、一般的な考え方に反し、黒人が遅れているのは、その本質的な特徴からではなく、社会、教育、経済の不平等な構造にあることが、この映画では示されています。映画の社会学的な観点から、アメリカの教育制度が、貧しい町に暮らす黒人を重視して築かれれば、彼らは高い能力や技術を有していることを物語っています。
この番組の中で紹介してきた映画とは異なり、このしあわせの隠れ場所は、黒人と白人が衝突することはなく、互いを否定してもいません。それどころか、互いを受け入れ、友好関係を築く方法を探ろうとしています。
リーアンと彼女の家族は、マイケルを遠ざけようとはしません。彼らは、マイケルを家族の一員にしようとします。これまで見てきたシーンでもわかるように、この映画は、白人と黒人を分けようとはせず、少しずつ、その境界を根拠のないものに見せようとしています。白人と黒人の境界は、1967年の招かれざる客、そして1998年のアメリカンヒストリーXでも近づいており、テューイ一家とマイケルの間では、その境界はほとんど存在しません。マイケルは、テューイ家の一員となっています。
マイケルは、頭が悪く、大学に入るための知識を持たない黒人であるように描かれていますが、アメリカンフットボールで高い運動能力を発揮します。また、彼は優しい、献身的、信頼できる、という道徳を備えています。マイケルは、アメリカンフットボールとテューイ家の盲点、隠れ場所を補う役目を担っています。
この映画は、黒人はスポーツの能力が高く、知識の面ではあまり能力を発揮できないということも示しています。
黒人が、身体的に高い能力を持ち、学力の面では劣るという描き方は、ハリウッドの新しいスタイルになっています。これに基づき、黒人は、知識の高い人々としては描かれず、単に、アメリカンフットボールやラグビー、バレーボールやバスケットボールなどのスポーツの場面で、身体的に高い能力を発揮できる人々として示されています。