コーラン第34章サバア章
今回は、コーラン第34章サバア章についてお話しましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
サバア章は、メッカで下されました。
サバア章は、サバアの民の運命について述べているため、この名前がつけられています。メッカで下された他の章と同じように、この章で取り上げられているのは、信仰上の問題、特に神と復活の問題です。
サバア章の最初の節は、現世と来世における神の支配に注目し、次のように始まっています。
「称賛は神のみのものであり、天にあるもの、地にあるもの全ては神のものである。来世でも、称賛は神のためのものである。神は英明で全てを知る方である」
現世と来世の支配は神のものであり、あらゆる恩恵、驚くべき均整のとれた創造物は、神に属しています。あらゆる称賛は神の清らかな性質に帰属します。神の英知と知識により、このような驚くべき秩序が世界を支配し、全てのものがしかるべき場所にあり、あらゆる存在物に必要なものが与えられているのです。
次の節は、神の無限の知識の一角を紹介し、次のように語っています。「地中に入るもの、そこから出て行くもの、天から下されるもの、天に昇っていくもの、それら全てを知っており、神は寛容で慈悲深い方である」
神は創造世界のすみずみまで精通しています。地上に降りるもの、またそこから出て行くものを知っています。神は地中深くに浸透し、その層の間に蓄積される雨のしずくの全てを知っています。神は地中に入り、やがて緑豊かな木やみずみずしい植物に生まれ変わる植物の種を知っています。地中から芽を出す植物、透明な水の湧き出る泉、とにかく大地の奥深くから出てくる全ての存在を知っています。神はまた、太陽の光り、地球へと向かっている隕石など空から降り注ぐもの、海から立ち上り、雲を作り出す蒸気など、空へとのぼっていくもの、それらの全てを知っているのです。どんなに賢い学者でも、これほど多くの事柄に精通している人は、神以外に存在しないでしょう。
サバア章は、神の性質や唯一性について語り、復活の問題を取り上げるきっかけとしています。そのため、サバア章の第3節では、神に誓って、最後の審判は必ず、あなた方すべてにやって来るとしています。サバア章は、復活を否定する人々に触れ、真理を証明する善良者や賢者たちについて語っています。サバア章第6節を見てみましょう
「知識を持つ人々は、汝の主から汝に下されたものを、称賛すべき神へと導く真理であると見なす」
このような賢者たちは、コーランは神から預言者に下されたものであり、その節は真理であり、人類を幸福へと導くものだと考えています。明らかに、論理的に考える賢者であれば、この天啓の内容について考え、優れた知識、英知に溢れた忠告、教訓に溢れた物語り、奇跡的な科学的議論を見て、この本が確かに正しいものであることを悟るでしょう。
サバア章の第10節から先は、預言者ダーヴードとソレイマーンの物語の一部を述べています。神は、「我々はダーヴードに大きな恩恵を与え、山や鳥たちに彼と共に謳い、彼と共に神を賛美するように言った。また彼のために鉄をやわらかくした」としています。シーア派6代目イマーム、サーデグは、次のように語っています。「ダーヴードが平原や荒野に向かっていた。詩篇を読み上げていたとき、全ての山や岩、鳥たちは彼と声を合わせた」 神の奇跡により、鉄はダーヴードの手の中でやわらかくなり、彼はそれによって、堅固な鎧を作りました。
その後の節は、預言者ダーヴードの息子、ソレイマーンと、神がソレイマーンに与えた恩恵について語っています。第12節と13節を見てみましょう。
「また我々はソレイマーンのために、風を[支配させ、]朝は1ヶ月の道を飛行し、夜にも1ヶ月の道を。また彼のために銅の泉を沸き立たせ、精霊・ジンの一団が主の許しによって彼の前で働いていた。そのうち、彼の命に背く者には、焼け付くような責め苦を味わわせた。彼らはソレイマーンが望むもの、彫像や大きな器を彼のために作った。ダーヴードの一門よ、[これらの恩恵に]感謝するがよい。だが、私の僕のうち、感謝する者はわずかである」
この後の節は、ダーヴードやソレイマーンとは対称的であった別の民について触れています。神はその民にも様々な恩恵を与えましたが、彼らは不信心の道を歩みました。彼らこそが、サバアの民です。この民は、預言者ソレイマーンの時代に生きていました。コーランは彼らについて、サバア章の第15節で次のように語っています。
「サバアの民のために彼らの住む場所に[神の力の]しるしがあった。右側と左側の2つの庭園である。食べ、感謝しなさい。清らかな町と寛容な神が[いる]」
サバアの民は、輝かしい文明を有していました。彼らは山あいに大きな土の壁を作り、町を破壊するような洪水をその後ろでせきとめていました。その壁からあふれ出る水が、彼らの広大な土地を潤し、その両側に耕作地や庭園ができあがりました。彼らの土地は、干ばつなどの様々な災害を免れていました。豊かな恵みが、安全と共に、生活に適した環境を作り出していました。また精神的な恩恵という点でも、彼らは神の慈悲に授かっていました。しかし、感謝しない人々は、このような恩恵の価値を知らず、不信心の道を歩み、傲慢になりました。豊かな者たちは、収入の少ない人々が自分たちと同じような立場になったり、この美しい地域の間を自分たちと一緒に行き来するのを望まず、そのような利権を独占しようとしました。しかし、実際、彼らは自分たちに圧制を加えたのです。突然、激しい雨が降り、嵐となって壁を壊しました。大きな洪水が起き、村や庭園、耕作地は破壊され、サバアの大きな文明は、泥の中にまみれていきました。豊かな庭園からは、枯れた数本の木が残るばかりでした。こうして神は、彼らを懲らしめ、彼らの一門を崩壊させ、他者への教訓としたのです。
サバア章の第31節から33節は、地獄に落ちた2つのグループの様子など、最後の審判の様子を描き、不信心者たちに、彼らの行いの結末を知らせています。第31節では、イスラムの預言者に対し次のように語っています。「汝は、この圧制者たちが主の前で尋問されるのを見るだろう。彼らは皆、自分の罪を他人になすりつけたり、互いに口げんかをする。このような状態で、目と耳をふさがれたまま、他の人々にしたがっていた弱い立場の人々は、圧制的な人々に対し、『もしあなたたちが存在せず、あなたたちの誘惑がなかったら、私たちは敬虔な人間の一人になっていた』と言う。彼らはそうすることで、自分たちの罪を圧制者にになすりつけようとする。現世では、彼らにそのような強い態度に出る勇気などなかったが、今は圧制者の前に立ちはだかり、はっきりとものを言う」
圧制者たちは、弱い立場にあった人々に対してこう答えます。「あなたたちは導きがやって来た後に、私たちがあなたたちが導かれるのを妨げたというのか?私たちはあなたたちの行いの責任を負っているわけではない。私たちの根拠のない言葉に従い、預言者の言葉を無視したのは、あなたたち自身の罪である」 圧制者たちは確かに、誘惑によって大きな罪を犯したかもしれませんが、そのような圧制者に従うべきではなかったというのも事実です。しかし、弱い立場にいた人々は、そのような回答に納得せず、再び、圧制者を攻め立てます。「あなたたちの日夜の宣伝により、私たちは導きを妨げられたのだ。あなたたちは私たちに、神を信じてはならない、神の他に同等のものを配しなさいと指示した。そう、あなたたちのせいである」 圧制者たちは、このような主張に対して返すべき言葉を持ちません。
このように、どちらのグループも自分の行いに後悔します。抑圧者たちは、他人を迷わせたこと、また被抑圧者は、このような悪しき誘惑を受け入れてしまったことです。しかし、それ以上の不名誉を蒙らないように、彼らは神の責め苦を見たとき、自分の後悔を隠します。神もまた、不信心者の首に鎖をつなぎます。そのとき、彼らは息ができず、言葉を発することができません。それは皆、彼ら自身のそれまでに培ってきた行いの結果です。不信心者や罪びとの行いは、彼らの首や足の枷となります。彼らは現世で欲望に囚われ、最後の審判でも別の形で囚われるのです。(了)