コーラン第90章アル・バラド章町
今回は、コーラン第90章アル・バラド章町を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アル・バラド章はメッカで下され、全部で20節あります。短い章ですが、その中に大きな真理を含んでいます。この章で述べられているのは、メッカの町への誓い、人間の人生には苦労や努力が伴うこと、目や口など、神からの貴重な恩恵と人間がそれらに感謝しないこと、これらの恩恵に感謝するための恵まれない人や孤児たちへの配慮、人間の2つのグループと彼らの運命といった事柄です。
アル・バラド章は、まず、人間の人生には常に苦労が伴うこと、現世の生活は、安楽や休息だけではないという事実を述べるために誓いを立て、第4節で次のように語っています。
「我々は人間を苦労の中に創造した」
人間はささやかな精液として母親の胎内にいるときから、多くの苦しみや困難を経て生まれます。そして生まれた後も、幼少時代や青年期、そして何よりも困難な老年期に、さまざまな苦労や苦難に直面します。それは現世の生活において自然なことです。
物質世界は、特別な構造を持っています。このような世界では、ただ楽しむだけ、あるいはただ苦しむだけ、ということはなく、楽しみと苦しみが共に存在します。とはいえ、苦難によって心が浄化され、道徳が培われ、人間の力の原動力となることにも注目する必要があります。
アル・バラド章の第5節は、人間の人生が苦痛を伴ったものであるのは、人間にはそれらを退ける力がないというのに、力を得ると罪や違反に走り、あたかも自分は罰を免れているかのようで、誰にもそれを抑えることができない、ということへの注目を促しています。
このような反抗的な人間は、財産の一部を慈善のために費やすよう求められると、高慢さから、このように言います。「私はこれまで、その道において多くの財産を費やしてきました」 しかし実際は、何も神のために施したことはなく、たとえ施したとしても、それは個人的な目的や他人に見せるためのものでした。
アル・バラド章は続けて、神が人間に下した物質的、精神的な恩恵の一部を挙げています。これによって、人間の高慢さを崩すと共に、人間に、これらの恩恵の創造主について考えさせ、感謝の気持ちを抱かせることで、創造主を知る方向へと導くためです。
アル・バラド章の第8節から10節を見てみましょう。
「我々は彼のために2つの目を与えなかったか? また、舌と2つの唇を。また彼を善と悪の道に導いた」
これらの恩恵は、人間が成長の道を歩むための手段です。目は、人間が外の世界と関係を築く上で最も重要な手段です。目のおどろくべき機能により、人間は、それを創造した神に対して頭を垂れずにはいられません。7層になっている目の構造は、それぞれが繊細な構造を持っており、光や鏡に関する物理の法則が、もっとも正確な形で守られています。
舌もまた、人間が他人と関係を築いたり、ある民族から他の民族、今の世代から次の世代に知識や情報を伝達したりする上で最も重要な手段です。この手段なくしては、人間がこれほど、精神的な問題や物質的な文明、知識や技術の点で進歩を遂げることはなかったでしょう。
唇は、コミュニケーションに効果的な役割を果たしています。なぜなら、言葉の多くは唇によって発せられるからです。また、唇は食べ物をかんだり、口の中の湿り気を保ったり、水を飲んだりするのを助けます。もし唇がなかったら、飲んだり食べたりすることだけでなく、唾液が口からこぼれ、人間の顔も機能的なものではなくなっていたでしょう。シーア派初代イマーム、アリーは次のように語っています。
「まことに人間が、目で見、舌で語り、耳で聞き、鼻で息をするのは驚くことである」
こうした中、道を選ぶ権利は人間にあります。人間は、目や舌を合法的な方法にも、また禁じられた方法にも使うことができます。そして、よい道と悪い道のどちらでも、選択することができるのです。
アル・バラド章の一部は、人間が通過することによって、救済を得られる道について触れています。その道とは、奴隷を解放すること、腹を空かせた人に食事を与えること、親類の孤児たちを気にかけること、恵まれない哀れな人に援助することです。
さらに、このような厳しい道を通過するのは、信仰を持ち、愛情や忍耐といった気高い道徳を持つ人です。コーランは、これらの人をアスハブル・ヤミン・右の仲間たちと呼び、その行いの記録は右手に渡され、救われるとしています。また、神の節を否定する人々は、アスハブル・マシュアマ・左の仲間たちと呼ばれ、その行いの記録は左手に与えられ、その報いを受けることになります。