6月 26, 2018 20:26 Asia/Tokyo
  • コーラン第100章アル・アーディヤート章進撃者
    コーラン第100章アル・アーディヤート章進撃者

今回は、コーラン第100章アル・アーディヤート章進撃者についてお話しましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・アーディヤート章はメディナで下され、全部で11節あります。

 

アル・アーディヤート章は、目覚めさせるような誓いによって始まり、その後、不信心や吝嗇、世俗主義といった人間の弱点の一部を挙げ、最後に復活の問題と、神の知識が僕たちを取り囲んでいることに簡単に触れています。

 

イスラム暦8年、イスラムの預言者ムハンマドにある知らせが届けられました。1万2000人の軍隊が集まり、預言者とそのいとこのアリーを殺害し、イスラム教徒の集団を解散させようと誓い合ったというのです。預言者は、大勢の教友を話し合いのためにこの軍隊のもとに送りましたが、結論は得られませんでした。預言者は同じことを何度か繰り返しましたが、彼らとの話し合いが実を結ぶことはありませんでした。

 

預言者は、軍勢と共に、アリーを彼らとの戦いに送り込みました。彼らは敵に向かって素早く移動しました。夜のうちに出発し、朝になって敵を取り囲みました。まず、イスラムについて彼らに説いて聞かせましたが、彼らはそれを受け入れませんでした。そこでやむなく彼らを攻撃し、彼らに勝利した上に、多くの戦利品を手に入れました。

 

イスラムの兵士たちがまだメディナに戻っていないときのことです。預言者は朝の礼拝の際、アル・アーディヤート章を読み上げました。礼拝が終わると、教友たちはこう言いました。「神の預言者よ、これまでこの章を聞いたことはありませんでした」 預言者は言いました。「その通り。アリーが敵に勝利し、大天使ジブライールはこの章をもたらして私に吉報を与えた」 数日後、アリーは捕虜たちとともにメディナに凱旋しました。

 

 

アル・アーディヤート章の第1節と2節には次のようにあります。

 

「息を荒げながら進撃する馬に誓って。また、荒野の砂利にひづめをあて、火花を散らす馬たちに誓って」

 

イスラムでは、神の道における戦い、不信心者や圧制者との戦いは非常に貴重なものです。イスラムは、他の民族に対する侵略や攻撃を否定していますが、イスラムやイスラム教徒、彼らの土地を守ることは義務とし、それを聖なる事柄と見なしています。

 

神の道における戦いは非常に美しく重要なものであり、戦士の馬たちの息遣いでさえも、誓いに値するものとされています。アル・アーディヤート章の第1節と2節では、神の道の戦士たちの馬に誓いが立てられています。その馬は戦場に向かって疾駆し、荒野の砂利にひづめが当たるために火花が散っています。

 

この後の節では、夜明けの戦士たちの攻撃に誓いが立てられています。彼らは驚くほどの速さで敵のもとに向かい、辺りに砂埃が立ち上ったと思ったら、瞬く間に敵の前に姿を現しました。彼らの攻撃は閃光のようにすばやく、わずかのうちに敵の隊列を崩すほどでした。このようなすばやさは、目的を達成するための彼らの用意と目覚めにありました。

 

 

アル・アーディヤート章の第6節をお聞きください。

 

「明らかに、人間は神の恩恵を前にしても、感謝を忘れ、非常に吝嗇である」

 

これは人間の特徴のひとつであり、そのために誓いが立てられています。コーランの中で、神は何度も人間が感謝を忘れることに対して不満を述べています。人間は苦難に襲われると心の底から神を求めますが、その危険が過ぎて問題が解決すると神のことを忘れてしまうのです。

 

導きや宗教的な知識という恩恵に授かっていない人間は、反抗的な欲望に屈してしまいます。このような人は出し惜しみをし、感謝を忘れます。興味深いのは、その人自身も、自分の欲望に気づいているということです。このような人は、自分の心の中の本質を他の人には知られまいと隠そうとしても、神と自分の良心をごまかすことはできません。

 

実際、人類の多くの災難や不幸、苦難の源は、神への感謝を忘れることにあります。そしてそれは、来世の責め苦を買うことになり、安全と幸福ではなく、悪と不安の土台を整えてしまいます。そのため、非難を向けるべきなのは、その人自身に対してのみです。

 

人間は富を深く愛しています。そのような財産や富に対する執着が強くなればなるほど、吝嗇になり、神への感謝を忘れ、不信心に陥る原因となるのです。

 

アル・アーディヤート章の第8節は、富は善いものであるとしています。富や財産はそれ自体、決して悪いものではなく、多くの善をもたらすための手段となりえます。しかし、感謝をしない吝嗇な人間は、富や財産を正しい道に利用せず、それを利己主義の道に費やすのです。

 

コーランによれば、感謝を忘れる人間は、地獄に落ち、厳しい責め苦を受けるにふさわしいとしています。そのため、コーランは次のように尋ねています。「世俗的で感謝をしないけちな人間は、最後の審判の日、墓場にいる全ての人が蘇らされるのを知らないのか? また、彼らの胸の内にあることがすべて明らかにされる」

 

その日、神は彼らと彼らの行いを完全に知り尽くし、それに見合った報奨や懲罰を与えます。神は常に、どのような状態にあっても、人間の外と内の秘密を知っています。しかし、それに基づいて、最後の審判のときに報奨か懲罰かが明らかにされます。これは、本当に神の知識を信じていれば、その人と罪の間には大きな障壁ができるという、すべての人間に対する警告となっているのです。