6月 27, 2018 21:58 Asia/Tokyo
  • コーラン第102章アッ・タカーソル章蓄積
    コーラン第102章アッ・タカーソル章蓄積

今回は、コーラン第102章アッ・タカーソル章蓄積をお届けしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

コーラン第102章アッ・タカーソル章蓄積は、メッカで下され、全部で8節です。

 

アッ・タカーソル章は、一連の根拠のない思想により、互いに自慢しあう人々を非難しています。また、復活と最後の審判、恩恵に関する尋問について述べられています。この章の名前であるアッ・タカーソル、蓄積とは、この章の第1節から取られています。

 

無明時代の特徴のひとつは、人々が互いに自分のことを誇示し、自慢していたことでした。一部の部族は、人口が多い、あるいは富が多いといった理由で、自分のことを他人よりも優れていると考えていました。そして、部族の人数の統計を増やすために墓場に行き、それぞれの部族の死者の墓の数を数えていたほどでした。

 

アッ・タカーソル章の第1節と2節を見てみましょう。

 

「あなた方は数が多いことを自慢しあっている。それが高じてしまいには墓場に行くほどだった」

 

シーア派初代イマーム、アリーは、この節が読み上げられた後、次のように語りました。「驚くことに、何と離れた目的であり、何と愚かな巡礼者であることか。そして何と痛ましく無意味な自慢であることか。彼らは何年も前から土の中に埋められ、骨が溶けてしまった人々のことを思い出した。これほど経ってから、自分の状態の役には立たないような人々のことを思い出した。祖先が滅びた場所を誇っているのか、それとも、死んだ人の数を数え、自分たちの数の多さを誇っているのだろうか? これらの腐った遺体は、誇りの源というよりもむしろ、教訓のもととしてふさわしいだろう」

 

タカーソル、蓄積とは、富を増やすことの競い合いや高慢さを意味するものではありません。蓄積や高慢さは、神の報奨や懲罰に対する知識がなく、復活の日を信じないことによります。また、人間が弱点や始まりと終わりを知らないことなどが、そのような高慢さの原因です。そのためコーランは、このような高慢さを崩すために、さまざまな節の中で以前の民の運命について述べ、それらの民族が、多くの力や可能性を持っていたにも拘わらず、台風や雷、地震、洪水のような大雨など、普通の災害で消滅していったことを忠告しています。

 

この他の高慢さの原因は、人々が弱さや卑しさを隠そうとすることにあります。シーア派6代目イマーム、サーデグは次のように語っています。「誰でも自分の内面に卑しさを感じる者が高慢になる」

このことから、人間は最高の成長を遂げたと感じれば、高慢になる必要はなくなるのです。

 

蓄積とは、時に、富を増やすことを意味します。イスラムの預言者ムハンマドは、この章の節を解釈する中で、次のように語っています。

 

「人間は私の財産だと言う。だが、あなたの財産は、あなたが食べる食事、身につける服、神の道において施す喜捨のみである」

 

少し考えてみると、人々はどんなに多くの富や財産を集めようとも、それから得られる利益とは、食べるもの、着るもの、そして神の道における施しとして使用されたものだけであり、残りは他人に相続されます。アッ・タカーソル章蓄積の第5節は、高慢になる人々を強く非難し、次のように語っています。

 

「あなた方高慢な人々が考えるようなものではない。もしあなた方が来世を信じ、その知識を確信していたら、決してそのようなことを求めようとはしなかっただろう。そして、このような無意味な事柄を誇ったりはしなかっただろう」

 

「確信」とは、「疑い」や「迷い」の対極にあります。また、「知識」は「無知」の反対です。さまざまな資料によれば、信仰の最高の段階は確信と呼ばれています。また、ハディースと呼ばれる伝承では、神を確信することとは、神の清らかな本質に屈すること、神の判断に満足すること、すべての問題を神に委ねることだとされています。

 

預言者ムハンマドは、「預言者イーサーの教友たちが水の上を歩いていたと聞いたことがある」という言葉を聞き、こう言いました。「もし彼らの確信がそれよりも強固なものであったら、空中を歩いていただろう」

コーラン第102章アッ・タカーソル章蓄積、第8節

 

イスラムの法学者であり、コーラン解釈者でもあるタバタバーイー師は、この預言者ムハンマドの言行録に触れた後、次のように語っています。「すべてのものは、神への確信を中心に回っている。そのため、神の絶対的な力に対する人間の信頼や信仰が高まれば高まるほど、世界のすべてのものは、神に対して服従する」

 

最後の節では、明らかに、あなた方は皆、最後の審判の日、尋問されるとあります。その日には、神から与えられた恩恵がどのような道において使われたか、それらが神への服従や生活のために使われたか、恩恵がよい形で使われたのか、損なわれたのかを明らかにしなければなりません。

 

 

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