サファヴィー朝時代の庭園作り
今回は、サファヴィー朝時代の庭園作りについてお話しすることにいたしましょう。
前回は、イランの庭園作りの歴史についてお話しました。イランの庭園作りは古いルーツを有し、その歴史を示す資料が残っています。前回は、アケメネス朝とサーサーン朝時代の庭園作り、そして、モンゴル族の襲来とティムール朝の時代の、イラン・イスラム式の庭園についてお話しました。しかし、イランで庭園が最も栄えたのはサファヴィー朝時代でした。そのため、今回は、サファヴィー朝時代の庭園作りについてお話しすることにいたしましょう。
サファヴィー朝時代には、イランの多くの都市で、町の区画と調和した広い庭園作りが重視されていました。この時代、非常に壮麗な庭園が現れ、その一部は、ほとんどそのままの形で今に残っています。サファヴィー時代の著名な庭園には、イラン中部イスファハーンのへザール・ジャリーブ、チェヘルソトゥーン、アーイーネハーネ、ハシュトベヘシュトがあります。この他、カーシャーンのフィン庭園、イラン北部・ベフシャフルのバーゲ・シャー、サフィーアーバード、ジャンナマイェ・ファラフアーバード、バーボルのバーゲシャーといった庭園が挙げられます。
ヨーロッパの旅行家たちは、イスファハーンで、イランの古代の庭園作りに基づき、庭園の歴史が続けられていったことに触れています。明らかなのは、サファヴィー朝時代の庭園が、イスラム以前のイランの庭園作りの方法と、楽園に関するコーランやイスラムの考え方を取り入れながら発展していったということです。サファヴィー朝時代の人々は、タフマーセブ王の時代、テヘランの西150キロのところにあるガズヴィーンに最初の庭園を建設しました。それが、この町や他の町に庭園が建設される始まりとなった、アーリーガープーの宮殿と庭園の建設でした。
サファヴィー朝の人々が、町の空間に庭園を建設することに特別な注目を払ったことが、イラン各地に庭園が生まれるきっかけとなりました。イランの考古学者ホナルファル氏は、イスファハーンの歴史遺産に関する著書の中で、この町のチャハールバーグという通りについて次のように記しています。
「サファヴィー朝時代に行われたことの一つが、イスファハーンの町におけるチャハールバーグ通りの建設だった。この通りは、散歩のための自然の空間を作り出した最初のデザインだった。チャハールバーグが建設されたのは、町のひとつの通りとして利用されることだけでなく、人口の密集した地区を離れた場所にあることから、散歩のために人々に利用してもらうためだった。この通りの周りには、すずかけやポプラの木が8列に並んでおり、それらの間には、バラやジャスミンの花が植えられていた。また、通りには、特別なデザインの施された噴水や池があった。チャハールバーグの周りには、ハシュトグーシュなどの美しい建物が建設されていて、それぞれが2つの小屋と1つの小さな建物を持っていた。これらの小屋と建物は庭園の入り口に建てられ、庭園の真ん中には大きな建物があった。チャハールバーグの傍らに建てられた建物や美しい宮殿のうち、現在も残っているのは、ハシュトベヘシュト宮殿のみである」
建築家たちによれば、サファヴィー朝時代のイスファハーンの町の設計に関して詳しく研究してみると、ひとつの秩序が見られるということです。それは、ザーヤンデルードという川とチャハールバーグ通りが出会うような形になっています。このような町の区画設計は、イラン・イスラムの都市建設の原則とティムール朝の庭園のモデルを融合したものであり、自然環境と建築の相互の結びつきに基づいて、町と庭園の整然とした関係が作り出されています。そのため、イランの都市にある庭園の間には、似通った点が見られるのです。
サファヴィー朝のアッバース1世の時代のイラン北部の宮殿や庭園は、この地域の気候が他の地域のそれとは異なるにも拘わらず、イスファハーンの宮殿や庭園の特徴やデザインによく似ています。唯一の違いと言えば、イスファハーンなど、高原や乾燥した地域にある庭園では、泉の水が、丘の上から非常に大きな池に流れ込みますが、それがカスピ海沿岸では、水が豊富なために、同じような庭園でも、天然の湖のようになっていることです。
イラン北部・カスピ海沿岸のベフシャフルにアッバース1世によって建設された庭園は、庭園作りにおいて最も重要な措置と見なされています。チェヘルソトゥーンやハルヴァト、サーヘバッザマーン、タッペ、チェシュメ、ショマール、サフィーアーバードの庭園は、美しいデザインが施され、常に、旅行者や観光客の賞賛を受けていました。しかし現在も残っているのは、ベフシャフルのシャフルダーリー庭園のみです。イランの庭園と宮殿に関する著書の中で、次のように記しています。
「イランの庭園作りは、アフシャール朝とザンド朝にも続けられ、ティムール朝からガージャール朝に至るまで、あらゆる芸術を駆使したイランのモデルに基づき、庭園が設計、建設された」
一部の研究者は、ガージャール朝時代の庭園作りを2つの時代に分けています。一つは、サファヴィー朝とザンド朝の庭園作りを継承した19世紀のもの、そして2つ目は、ガージャール朝のナーセロッディーン王の末期から、この王朝の終わりまでのもので、この時代は西洋式の庭園作りの影響を受け、庭園や宮殿の建設に変化が見られました。このとき以降、芝生や植物を利用して、中心となる建物の前の開けた空間が整えられるようになりました。この時代の庭園は、通常、庭園の持ち主のプライベートな利用のために設計され、そのため、背の高い壁に囲まれていました。また、気候条件により、庭園は、夏でも十分な空間が取れるように、多くの植物が植えられていました。
実際、ガージャール朝時代は庭園作りが広まり、それまで、装飾された庭園など存在しなかった、テヘランをはじめとする一部の都市で、商人や貴族の邸宅、宮殿などがの建設と共に、新たな庭園が作られました。残念ながら、現在はその大部分が破壊されていますが、他のどの時代よりも、この時代の遺物がより多く残っていて、各都市の旧市街の重要な部分は、この時代のものです。ガージャール朝時代には、建築や都市建設が、外国の文化的な侵略による変化を伴ったものとなりましたが、概して、この時代には、建築や都市建設に関する躍動的な文化が生まれることになりました。
イランの庭園は、建築、木や花、水といった要素が合わさったものであり、それは、イランの文化や伝統、好みに合致したものです。その一方で、イランの広大な地理や気候の多様性により、歴史の中で、様々な種類の庭園が生まれてきました。イラン式の庭園は、そのデザインの点から3つのグループに分けられます。一つ目は、ほとんど傾斜のない平坦な土地に作られたものです。この種の庭園は、縦横の垂直に交わる十字路になったものであり、土地が広ければ、縦横に平行のいくつもの線が延びています。その代表的な庭園が、カーシャーンのフィン庭園です。二つ目の庭園は、緩やかな、あるいは急な傾斜を持つ土地の上に階段状に建てられた庭園です。その代表的な例は、イラン中部イスファハーンにあるへザール・ジャリーブ庭園です。三つ目は、周囲を囲まれた土地に建てられたもので、自然な形の森林のような状態が保護されるようになっています。その代表的な例は、イラン北部のベフシャフルにあるアッバースアーバード庭園です。