なぜ私達は慈悲あまねく慈愛深き神をおそれなければならないのですか?
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なぜ私達は慈悲あまねく慈愛深き神をおそれなければならないのですか?
神は慈悲あまねく慈愛深きお方であるとクルアーンにも書かれているのに、その一方で私たちが神をおそれなければならないのはなぜなのか?
A: 「神をおそれる」と聞いて真っ先に思いつく意味には、私たちを神から遠ざけるような悪行や醜行に由来する苦い結果、神が圧制者や罪人に対して用意した罰、また穢れた人間や理不尽なことを押し通す暴君などといった腐敗した民を待つ恐ろしい結果としての”おそれ”があります。
しかし「神をおそれる」には別の意味もあります。「神をおそれる」の2番目の意味は偉大、強力、かつ壮大な神の御前において己の小ささを感じること、です。
私たちは大きな山の麓に立つとき、自分の小ささを実感します。それと同時に山の大きさを心の中で称賛します。
神の善きしもべたちは、全能で偉大なる主のいと高き地位を実感し、かれの威厳や唯一なる創造者であるかれの存在を認識することによって驚嘆します。これは“おそれ“の感覚に似たものです。この時、人は自らが限りなく小さな存在であり神が限りなく大きな存在であると理解します。クルアーンにおいてこれを“畏怖・畏敬“と呼んでいます。
畏怖や畏敬という意味の「おそれ」と、罪業に由来する「おそれ」は異なります。畏怖や畏敬という種の「おそれ」は敬虔な信者が抱く「おそれ」であり、それは人が唯一絶対なる偉大な神の前に己の限りなき小ささを実感することを意味します。
“私たちは神をおそれなければならない“という時の「おそれ」は、神に対する畏怖畏敬の念を抱きなさいという意味で使われているのです。
http://ja.abna24.com/news//qより
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