神に関する質問 : 最後の審判で、私たちは神を見ることが出来ますか?
Q: 最後の審判の際には、私たちは神を見ることが出来ますか?
A: まずは、クルアーンのこの2つの節を読んでみましょう。
クルアーン第75章 復活章(アル・キヤーマ)の第22節と23節に
وُجُوهٌ یَوْمَئِذٍ نَاضِرَةٌ ﴿۲۲﴾
إِلَى رَبِّهَا نَاظِرَةٌ ﴿۲۳﴾
22.その日、或る者たちの顔は輝き、
23.かれらの主を、仰ぎ見る。
とありますが、復活(=最後の審判)の時私たちは神を見ることが出来るのでしょうか?
クルアーンの解釈において決して性急であってはなりません。節からの結論づけにおいて、クルアーンの他の節を無視することもできません。クルアーンは神を見ることを不可能であるとしています。
クルアーン第6章 家畜章(アル・アンアーム)第103節を読んでみましょう。
لَا تُدْرِکُهُ الْأَبْصَارُ وَهُوَ یُدْرِکُ الْأَبْصَارَ وَهُوَ اللَّطِیفُ الْخَبِیرُ ﴿۱۰۳
103.視覚ではかれを捉えることはできない。だがかれは視覚そのものさえ捉える。またかれはすべてのことを熟知され、配慮されておられる。
復活章で記されている種類の“見る”とは視覚で捉えることを示すのではなく、“心の目で見る、魂・精神で神を認識すること”を示すのです。
また、あるクルアーン解釈者は、復活章のこの節をこのように訳しています
「その日、ある者たちの顔は輝き
神のみを待望する。」
つまり、復活(=最後の審判)の日信者たちは自分の行い(善行)に頼るのではなく、ただただ神のご慈悲を待望する。
この2つの節についてこの解釈を受け入れるならば、それを説明しなければならないような“神を見る”というテーマの問題が起こってくることはありません。
クルアーン解釈書“タフスィール ネムーネ”では、上記2つの両方の解釈を支持・確証しています。
出典: http://ja.abna24.com
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