神に関する質問 : コーランに、 “神は望む者をお導きになり、また望む者を迷わせる”とありますが、これは神の正義に反しませんか?
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神に関する質問
Q: コーランに、“神は望む者をお導きになり、また望む者を迷わせる”とありますが、これは神の正義に反しませんか?
A:
導きには2つの種類が、迷わせることにもまた2つの種類が考えられます。
導きには「当初からの導き」と「報酬としての導き」という2種類、
また、迷いには「当初からの迷い」と「処罰としての迷い」という2種類です。
まずは考えられる2種類の「導き」についてみてましょう
当初からの導き
当初からの導きとは、つまり創造当初から神は全人類への導きの基礎を整えられたという意味であり、人間に知性を与えることと預言者を遣わすことによって永遠の幸福への道を示されたことを指します。
慈悲深い神は“この種の導き”を誰からも奪われることはなく、人々がこの導きを享受することに関して差別を認めません。
報酬としての導き
報酬としての導きとは、つまり神が“神への服従への道”に足を踏み入れた信者たちと善行を行う者たちに対して、より多くの恩寵をお与えになること。そして彼らの善き行いのために、永遠の幸福への道を彼らに用意されることを指します。
コーランの中で上記の2種類の導きについて記されています。この2種類の導きは、神の正義と人間の自由意志によるもので矛盾はありません。
次に考えられる2種類の「迷い」についてみてみましょう
当初からの迷い
当初からの迷いとは、つまり人間が真理と虚偽の道を選択する前に神が人を騙し策略によって迷いに陥れることを意味し、この種の迷いは、まさしく神の正義や慈悲に反するものでありクルアーンもこのようなことを神に関連付けることはありません。
それでは、別の種類の迷いはどうでしょうか?
処罰としての迷い
処罰としての迷いとは、つまり神が“悪を行う者”と“不当な行いを成す者”に対し、その悪い行いを悔いることもなく強行したことを理由に特別の恩寵を彼らから剥奪されることを示します。こうして彼らは以前にも増して迷いの中に深入りし、さらに加速して不幸へと突き進むようになるのです。神は彼らを放置し、彼らを目覚めさせるような警告、導きの分け前を彼らから奪います。この種の迷いは神に関連付けることが出来ますし、神の正義と人間の自由意志にも相反しません。
以上のことから、神による人間に対する「導き」と「迷い」には不公正や矛盾など存在しないことが分かります。
導きが全ての人に対するものであるのに対し、迷いは処罰によるという面だけを持っており、これは人間の行いの結果なのです。
出典: http://ja.abna24.com