光の彼方への旅立ち、ルーム章(3)
コーラン 第30章 ルーム章 ローマ 第14節~第19節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第14節
「最後の審判が行われる日、その日、[人々は]互いに分けられる。」(30:14)
(14)وَيَوْمَ تَقُومُ السَّاعَةُ يَوْمَئِذٍ يَتَفَرَّقُونَ
第15節
「それで、信仰を寄せ、相応しい行いをする人々、彼らは庭園で喜びに包まれる。」(30:15)
(15)فَأَمَّا الَّذِينَ آمَنُوا وَعَمِلُوا الصَّالِحَاتِ فَهُمْ فِي رَوْضَةٍ يُحْبَرُونَ
第16節
「だが、不信心に走り、我々の節と来世の会見を否定する人々、彼らは責め苦に呼ばれるだろう」(30:16)
(16)وَأَمَّا الَّذِينَ كَفَرُوا وَكَذَّبُوا بِآيَاتِنَا وَلِقَاءِ الْآخِرَةِ فَأُولَئِكَ فِي الْعَذَابِ مُحْضَرُونَ
この3つの節によれば、最後の審判の日、人々は2つのグループに分けられます。第一のグループは、信仰を寄せ、善い行いをした人々であり、もうひとつのグループは、真理を否定し、不信心に走った人々です。年齢や学歴、性別や人種、言語、財産や地位など、現世で人々を互いに区別していた要素は、最後の審判では何の意味も持ちません。人間の運命を決め、互いに異なるものにするのは、信心深いか不信心かであり、それに続いて、善い行い、あるいは悪い行いが伴います。
興味深いのは、楽園に入るためには、信仰だけでは十分ではないことで、善い行いをすることも必要なことです。しかし、地獄に入るためには、不信心のみで十分です。なぜなら不信心は、それ自体、自分自身、神が人間に与えてくれた存在という財産への最大の圧制であるからです。
第14節から16節の教え
- 最後の審判は、清らかな人と穢れた人、善良な人と罪を犯した人を分ける日です。
- 善い行いは、神を信じる心から生まれた神のためのものである場合に価値を見出します。
- 神の節と最後の審判を否定することは、神を信じない心、頑なな心からくるものです。
- 来世での人間の運命は、現世でのその人の行いにかかっています。
第17節
「そこで、夜に入るとき、また朝になるときに、神の清らかさを讃えなさい。」(30.17)
(17)فَسُبْحَانَ اللَّهِ حِينَ تُمْسُونَ وَحِينَ تُصْبِحُونَ
第18節
「天と地の賞賛は神のみのものである。一日の終わりと昼になるときにも」(30:18)
(18)وَلَهُ الْحَمْدُ فِي السَّمَاوَاتِ وَالْأَرْضِ وَعَشِيًّا وَحِينَ تُظْهِرُونَ
コーラン解釈者の中には、この神の節は、義務とされる一日の礼拝の時刻について触れたものだとする人々がいます。「朝と夜、昼と夕方に神の名を唱え、神を賞賛しなさい。なぜなら、世界のすべてのものは、神の偉大さと清らかさを示し、神の無限の力と知識を示しているからである」
そう、多神教崇拝から離れるためには、どのような状態にあっても神を賞賛し、心でもまた言葉でも、神はいかなる欠点も欠陥も持たず、唯一無二の存在であると信じることです。
第17節と18節の教え
- 神への賞賛は、いつ、どこで行ったとしても、価値があります。とはいえ、神の名を唱えるのに特に適した時も存在します。
- 神を賞賛し、神はいかなる欠点や穢れも持たないと考えることは、神への感謝と崇拝の土台となります。そのため、神への賞賛は、崇拝や感謝よりも尊いものです。
第19節
「彼は死から生をもたらし、生から死をもたらす。また死んだ大地を蘇らせる。あなた方もこのようにして[墓場から]出される」(30:19)
(19)يُخْرِجُ الْحَيَّ مِنَ الْمَيِّتِ وَيُخْرِجُ الْمَيِّتَ مِنَ الْحَيِّ وَيُحْيِي الْأَرْضَ بَعْدَ مَوْتِهَا وَكَذَلِكَ تُخْرَجُونَ
復活を否定する人々の疑問に対し、この節は、現世で死んだ存在物が蘇ることの例に触れ、次のように語っています。「あなたたちはどうしたら、最後の審判の日、死人が蘇らされることなどあり得ないと考えるのだろうか? 神は常に、生かしたり、死なせたりしている。木や植物は冬に死に、春になると再び蘇る。毎年繰り返されている、それをあなたたちも目にしているだろう。また毎年、魂のない土の中から、様々な植物が顔を出し、その生命をあらわす。その一方で、多くの生き物は、魂を失い、土と化す」
私たちが口にする水や食料は、生きたものではありません。しかし、体の中に入ると、生きた細胞になります。自然の秩序においても、死から生、生から死というサイクルが見られます。これは、最後の審判で亡くなった者たちを蘇らせる、神の力の最大の証明です。とはいえ、この節は、精神的な側面からも解釈することができます。一部の言い伝えでは、不信心者から敬虔な人間が生まれる、敬虔な人間から不信心者が生まれる、あるいは、無知な人間から賢者が、賢者から無知な人間が生まれるといったことが、生から死、死から生が生まれることの例えとして挙げられています。
第19節の教え
- 賢く公平な人間であれば、最後の審判を信じて疑いません。なぜなら神は、現世で様々な存在物を死なせたり蘇らせたりすることの中で、自らの力を示しているからです。
- 生き物の生と死のサイクルは、創造世界の中で目にすることができます。これは最後の審判まで続けられます。