アブーレイハーン・ビールーニー(1)
アブーレイハーン・ビールーニーは数学、地理学、地学、人類学、物理学、天文学などの様々な学術分野における、当時の傑出した学者でした。彼は、著作の中である学術的な問題の歴史的な経緯について扱った、最初の学者だったのです。18の金属や高価な石の密度の測定、地球の直径と円周の測量、地図の新たな作成方法の考案、各都市の間隔の測定、インドの人々の歴史と信仰についての調査など、これらはみな後世にまで残ったビールーニーの業績です。今回は、皆様にイラン文化圏の広大さと、彼の優れた名声について紹介しましょう。
アブーレイハーン・ビールーニーは973年9月、現在のトルクメニスタンとウズベキスタンの間にある、ハーラズム地方のカースという町に生まれました。彼の父親アブー・ジャアファルは、当時ハーラズムの地方政権の1つであったホラズムシャー朝の天文学者で、この地方のゴルギャーンジという町の天文台に所属していました。ビールーニーが語ったところによりますと、父アブー・ジャアファルが嫉妬深い人々の中傷を受けて宮廷を追放されたため、ビールーニー親子はやむなくハーラズム近郊のある村落に居を構えたということです。しかし、村の人々にとって彼らはよそ者だったために、ペルシャ語でよそ者、外を意味するビールーニーという名称で有名になりました。また一部の人々の間では、ビールーニーがハーラズム地方の中心都市カースの町の外で生まれたために、このような名前で有名になったと考えられています。
ビールーニーは、幼いころから学問を学び始めました。彼はイランの優れた学者で、ホラズムシャー朝のエラーク王族の1人でもあった、アブーナスル・マンスールとの出会いにより、ホラズムシャー朝の宮廷に召し抱えられ、またアブーナスル・マンスールが創立した王朝の学術機関に登用されたのです。彼は、このときわずか17歳にして、王の輪と呼ばれるグループの支援で、カースの町における正午の太陽の高度を測定しました。4年後、ゴルギャーンジの為政者マームーン・ブン・マフムードがカースの町を襲撃し、ビールーニーの後援者でエラーク族の出身でもあり、ホラズムシャー朝の最後の君主だったアブーアブドッラー・ブンアフマドが滅ぼされてしまいます。
ハーラズム地方でエラーク族による統治政権が崩壊したことで、ビールーニーは一時期身を隠していた、あるいはほかの土地に赴き、997年にマームーン朝の為政者の息子、アリー・ブンマームーンの在任中にカースの町に戻ったといわれています。彼はこの年の5月27日、日食の観測に成功しました。信頼性のある資料によると、ビールーニーはこれ以前に、当時の著名な数学者で天文学者のアブルワファー・ブーズジャーニーとともに、バグダッドで日食を観測する約束をしていたということです。ビールーニーは、このようにして確認した時間の違いから、この2つの都市の間の地理的な距離を算出しました。このようにして、若きビールーニーは既に高齢となっていた著名な学者ブーズジャーニーが、協力を申し出るほどの地位に上り詰めていたのです。
ビールーニーはその少しあと、現在のテヘラン南部に当たるレイを訪れました。彼は、この町でイランの有名な2人の数学者と天文学者、クーシヤール・ギーラーニーとホジャンディと会い、ホジャンディが製作した六分儀と、この六分儀によるホジャンディの観測内容に関する短い論文を記しました。ビールーニーは、これを当時もっとも正確な六分儀だとしています。その後彼は、イラン北部に起こったバーヴァンド朝の為政者マルズバーンの元に赴き、この為政者の名で論文を記しました。ビールーニーは、30歳ごろだった11世紀はじめ、イラン北東部の町ゴルガーンに赴き、ズィヤーリー朝の為政者ガーブースの名前で『古代民族年代記』を執筆しました。もっとも、彼はそれ以前に、そのほか7つの著作を執筆し、イブン・スィーナーとともに学術的な文通を行っています。彼は1003年、ゴルガーンの町で日食を観測しており、その当時のさらに200年前に、イラク・バグダッドで行われてきた太陽の南中高度の角度の観測を、ゴルガーン近郊にてより正確な形で行おうとしました。しかし、ビールーニーの後援者だった時の為政者ガーブースが、このような業務への関心を失ったことから、ビールーニーは彼の支援を失い、業務を続けることができなかったのです。
ビールーニーは、40歳になろうとしていた1009年、再びハーラズムに戻り、一時期当地の為政者アボルアッバース・マームーンの宮廷で生活していました。彼は、このイラン系の為政者の支援を得て、天体観測における重要な業務を遂行することができました。ビールーニーは、南中高度に達した太陽が収まる日時計を作り、これは天文学において重要な業績となりました。また、面積の測量における問題を解決する道具を製作しています。しかし1016年、為政者マームーンが自分の兵士に殺害され、その後はガズナ朝のマフムードがゴルギャーンジを襲撃しました。マフムードは、ビールーニーなど多くの偉人たちをガズナ朝の本拠地で、現在のアフガニスタン東部の町に当たるガズナに連れ去ったのです。
12世紀のペルシャ語詩人のニザーミー・サマルガンディは4つの著作の中で、ガズナ朝のマフムード王がハーラズム地方の為政者・マームーンの宮廷の華やかさを羨み、自分の宮廷に召し抱えるために、ハーラズム地方のすべての優れた学者を送ってよこすようにとの最後通牒を送りつけてきた、という有名な話を記しています。イブン・スィーナーとキリスト教徒のアブーサハルの2人の哲学者は西へと非難しました。ビールーニーは、ガズナ朝の宮廷に仕えて、その後30年以上に渡ったとされる余生を過ごしたのです。
残念ながら、ガズナ朝時代のビールーニーの人生に起こった出来事の流れや、詳細については明らかになっていません。表面的には、彼はガズナ朝の占星術師として知られています。おそらく、ビールーニーは少なくとも12年はガズナ朝のマフムードの宮廷に使え、インドに関する情報の収集、サンスクリット語やほかのインドの言語の習得に従事し、インド哲学やインド学の研究をして過ごしたと見られています。また、ビールーニーは為政者マフムードのインド遠征に随行し、この中でインドの学者と知り合いになりました。彼は、この旅の中でサンスクリット語を学び、著作『インド誌』を記すために必要な情報を集めました。彼はまた、訪れたすべての町の地理的な緯度を特定しようとしました。ビールーニーは、現在のパキスタン・パンジャーブ州にあるナンダナの砦で過ごしていた1025年、この近くにあった山を利用して、地球の半径を計測しました。ビールーニーは最終的に、その調査結果を論説の中に記しています。
1024年、ヴォルガ川のトルコ系集団の為政者がガズナ朝に使節団を送りました。この集団は、極地帯の住民と通商関係を持っており、ビールーニーは彼らに対し、極地帯に関する情報を提供するよう要請しました。この使節団の一人は、ガズナ朝のマフムードの前で、「はるか北方の極地帯では、時には長期間に渡って太陽が沈まない時期がある」と語りました。マフムードははじめ大いに怒り、彼を不信心者だとしましたが、ビールニーはマフムードに対し、この使者の言葉は正しく学術的であるとして、それについて語りました。
ビールーニーはこの時期に集めた情報を利用し、インドに関する重要な著作である『インド誌』の編纂をてがけ、マフムードが死去したあとの1030年にこの作業を終えました。その少し前、ビールーニーは数学と天文学に関する『占星術教程の書』を編纂しています。ガズナ朝のマフムードが死去し、その息子のマスウードが後継者となった後は、ビールーニーにとってより研究がしやすくなり、当時天文学の書籍とされた『マスウード宝典』の執筆を終えました。マスウードはこの本の執筆の功績を称え、報酬として金や銀をビールーニーに送りましたが、彼はそれをすべて国庫に返却し、為政者マスウードに対して次のように述べています。「私には、金や銀は必要ありません。なぜなら私は、今あるもので満足する生活を送ってきていてそれに慣れており、この生活をやめるのは私にとって大変つらいからです」と語りました。
推測によると、ガズナ朝のマフムード王の後継者たちは、ビールーニーの学術活動の継続を奨励し、ビールーニーの研究活動に必要なものを調達したとされています。その理由は、マスウードの息子、マウドゥードがガズナ朝の為政者だった時代以降は、ビールーニーの残した著作として、鉱物に関する『宝石の書』、薬学に関する『薬学の書』が知られており、これが後世にまで伝えられているからです。
ビールーニーは、マウドゥードの治世の初期の1048年、遂にガズナにて77歳で死去しました。ビールーニーの死を見取った有名な法学者、アボルハサン・アリービンイーサーは、次のように記しています。「彼が臨終を迎えていたとき、私は彼の枕元に付き添っていた。彼は、私に法学に関する質問を行ったが、そのとき私は、『今は、このような質問をすべき時でしょうか』と尋ねた。彼はそれに対し、『この問題を知って死ぬのと、知らないままに死ぬのと、どちらがよりよいか?』と語った。私は問題に回答し、彼はそれを理解した。彼の許を辞去した。だが数歩も歩かないうちに、彼の家から悲しみの声が聞こえてきた」。