9月 23, 2019 13:59 Asia/Tokyo
  • ナスィーロッディーン・トゥースィー
    ナスィーロッディーン・トゥースィー

トゥースィーが、イスラム暦の597年に当たる西暦1201年にイラン北東部の町トゥースで生まれたことについては、前回もお話ししました。彼は、コーランやイスラム法学や原理を父の下で、その後おじのヌーロッディーン・ムハンマドの下でイスラムの伝承・ハディースや論理学や哲学を学びました。その後彼は、学問を修めるために、当時イスラム世界の学問の中心の1つとみなされていたイラン北東部のネイシャーブールに赴き、当時の一般的な学問のすべてにおいて頭角を現しました。

モンゴルがホラーサーン地方に侵攻していた時期、トゥースィーはイスマーイール派の拠点に行き、多くの著作を記しました。モンゴルのフラグ・ハンはイランを攻撃し、イスマーイール派の統治を終わらせると、トゥースィーを召抱え、彼を宰相に選びました。フラグはトゥースィーに相談した後、一部の側近たちの反対にもかかわらず、アッバース朝の本拠地で、現在のイラクの首都バグダッドを平定しました。トゥースィーが天文観測所をイラン北西部のマラーゲに建設したのは、この平定の後でした。この天文観測所は40万冊の蔵書を持つ図書館を併設するとともに、数学などに関する教育活動や研究活動が行われていました。

トゥースィーは当時の学問全般、とりわけイスラム法学、哲学、修辞学、論理学、数学、天文学、倫理学に通じており、それらの分野の大半で貴重な著作を残しています。彼の著作は書籍、論文、書簡など150点にも及んでいます。研究者は、論理学について書かれた5冊の本のうち、論理学に関する著作『引用の基本』が、他のどの本よりも重要だと考えています。彼はまた数学にも特別に精通しており、この分野で貴重な著作を残しています。彼の著作で最も重要なものには、三角法や幾何学、計算式に関する著作があり、その中で有名なものには『扇形に関して』というものです。彼はこの本の中で、天文学によらずに三角法を初めて発展させた人物となりました。

トゥースィーの数学における著作は、彼以前の数学者のそれと比べると、いくつか優れた点があります。トゥースィーは数学における法則の発見、定理の推論に非常に優れており、平面幾何学に秘められている原理や基本的な定理に完璧に精通していたため、幾何学における平行線の定理を仮説の基本にして、法則を提示し、彼以前の数学者が理解できなかった内容を証明しました。彼は、球面三角法において直角三角形の6つの異なるケースを列挙した初めての学者でした。三角法におけるトゥースィーの研究は、現代のヨーロッパの研究者の研究結果と一致しており、このため、イラン人の学者としての彼の名声は、三角法の書籍に記されています。

トゥースィーは、エウクレイデス、アルキメデス、プトレマイオスなどの一部の過去の一部の数学者の著作の解釈も記しています。彼の解釈の特性とは、ギリシャの数学書の解釈に当たって、ギリシャ語の用語をアラビア語に置き換えて、その内容をそのまま伝えるのではなく、その目的や概念をわかりやすく説明しています。実際に、トゥースィーは同時代の学者や、数学を学ぶ後の世代の人々のために、数学をわかりやすい学問に変えたのです。言い換えれば、トゥースィーは数学における昔の時代の翻訳の多くを注意深く研究し、それを修正して新たに編纂したことになります。その結果、これは全く矛盾のないものとなり、数学を学ぶ学生は、この学問を学ぶ様々な段階で事前に必要となるギリシャの数学書を、トゥースィーにより記された独特の体系や手順により学べるようになりました。

トゥースィーの天文学におけるもっとも有名な書籍は、『イルハン天文表』と、『天文学覚書』の2つです。そのほか、星の観測に関する書籍も記しています。この『天文学覚書』は、中世において、プトレマイオスの天文学に対する最も完璧な批評であり、星の運行に関する新たな数学的規範を示す唯一のものです。この本はかなり高い確率で、ビザンツ帝国の天文学者の記述を通じてコペルニクスの手に渡り、地動説以外は、コペルニクス天文学の新たな内容になったと思われます。そのほか、彼の著作の優れた点に、以前の天文台には存在しなかった、マラーゲの天体観測所のための新たな器材と精密な天体観測の設備の発明が挙げられます。このため、彼は天文学を極めることができたのです。

トゥースィーは政治や社会との接触が多かったにもかかわらず、恒久的な世界に至るためのもっともよい方法とは、宗教を持つことであるとしています。確かに、彼はあらゆる記述の中で独立の精神や知性について語っていますが、知識が信仰心や宗教によってのみ得られ、生命を癒し、魂を与える真の学問は宗教だと断言しています。トゥースィーは天文学者として有名であり、彼の天文観測所は学問の歴史において学術機関とみなされています。タンスーグナーメと呼ばれる彼の著作は、ビールーニーの『宝石の書』などの類似の本と比べても、内容の点からこの書と同様に重要な作と見なされています。しかし、トゥースィーは最先端のイスラム哲学者であり、イブン・スィーナーのアリストテレス哲学を200年ぶりに神学の中で復活させました。彼はアリストテレス哲学とイスラム哲学を融合させた初めての人物でした。彼の『ナーセルの倫理書』は、インドやイランのイスラム教徒の間で最もよく読まれていた倫理書です。そのほか、シーア派の12イマーム学派の宗教原理に関する著作もあります。

トゥースィーは西暦1274年に当たるイスラム暦672年、モンゴルに略奪された書物を回収し、マラーゲに持ち帰るため、弟子たちと共にバグダッドを訪れましたが、この年の7月2日にあたるゼルハッジャ月18日、バグダッド近郊のカーゼマインで死去しました。彼は暗黒のモンゴル時代における輝かしい星であり、訪れた場所全てに叡智や倫理の光をもたらしました。レバノン人のキリスト教徒の作家ジュルジー・ザイダンは、トゥースィーに関して、次のように記しています。「このイランの賢人により、学問と英知がモンゴルに支配されていた最も遠い場所にまで届いた。それはさながら、暗闇における光のようなものだった」。

トゥースィーを書物の中だけに限られた学者と見ることはできませんし、その生涯を特定の概念や言葉で要約することも出来ません。彼は倫理や人間性に基づいていたことから、彼は宗教的、イスラム的な価値観を何よりも優先しました。彼は欲望や自己中心性から解放された人物なのです。学問や知識だけでは脱出することができない牢獄から出るためには、神に対する信仰とその正しい実践が必要なのです。トゥースィーの時代から長い年月がたっていますが、いまだ彼の言葉や行動、そして知識は学問の世界の中で生き続けているのです。

 

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