11月 19, 2022 17:50 Asia/Tokyo

コーラン第35章ファーテル章創造者、第18節~第21節

慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において

 

第18節

(18)وَلا تَزِرُ وَازِرَةٌ وِزْرَ أُخْرَى وَإِنْ تَدْعُ مُثْقَلَةٌ إِلَى حِمْلِهَا لا یُحْمَلْ مِنْهُ شَیْءٌ وَلَوْ کَانَ ذَا قُرْبَى إِنَّمَا تُنْذِرُ الَّذِینَ یَخْشَوْنَ رَبَّهُمْ بِالْغَیْبِ وَأَقَامُوا الصَّلاةَ وَمَنْ تَزَکَّى فَإِنَّمَا یَتَزَکَّى لِنَفْسِهِ وَإِلَى اللَّهِ الْمَصِیرُ 

「誰も、他人の[罪の]荷を背負うおとではない。もし重荷を負っている誰かが他人に自分の重荷を負わせようとしても、それがたとえ近親者であろうと、軽くなることはない。[預言者よ、]汝は、他人の目が届かないところで彼らの主を恐れ、礼拝を行う人々のみに忠告を与える。また、誰でも清らかさを求める者は、その人自身にのみ、結果がある。[すべての人の]立ち返る場所は神である」

 

この節は、イスラム教徒の信条の原則のひとつである、神の正義に触れ、次のように語っています。「最後の審判で、神の報奨を得るか、懲罰が下るか、それを決める基準はその人の行動である。誰かが、友人や親類など、現世での関係を理由に、他人の罪の重荷を背負うことはない。神もまた、行動の清算において、誰かの罪の重荷を別の誰かにかぶせることはない。最後の審判では、誰でも自分の行いの責任を取ることになる。ここでは誰も、環境や社会のせいにして、自分の罪を逃れることはできないのだ」

 

とはいえ、もし誰かが他の人に罪を犯すようそそのかしたとき、他人の罪に関与した分だけ、その懲罰を受けることになります。また誰かが他人のよい行いに関係した場合には、その報奨の分け前にあずかることになります。

 

この節は続けて、罪の根源である魂の穢れについて触れ、次のように語っています。「真理を求める心をもち、健康な精神、清らかな魂を追求する人々のみが、真理の言葉に耳を傾け、穢れから遠ざかる。そうでなければ、預言者の言葉でさえ、彼らに影響を及ぼすことはなく、彼らが目覚めることはない」

 

第18節の教え

  • 最後の審判で、人間は自分の罪の重荷を背負うことになります。
  • 現世では、私たちに罪をそそのかす人に欺かれないようにしましょう。彼らは、「怖がることはありません。もし懲罰が存在しても、私たちがその罪をかぶります」と主張します。
  • 罪の責任を取るのはその人自身です。私たちは他人の罪のために罰を受けることはありません。しかし、もし悪を否定する義務を履行せず、他人の好ましくない行いや罪を防ごうとしなければ、私たちは、他人の醜い行いに対する沈黙を理由に、罰を受けることになります。
  • 最後の審判では、誰もが自分の行いに合わせた清算を受けます。たとえ非常に近い存在の人であっても、他人に助けてもらうことはできません。

 

第19節

(19)وَمَا یَسْتَوِی الأعْمَى وَالْبَصِیرُ

「また、目の見えない人と見える人は同じではない。」

 

第20節

(20)وَلا الظُّلُمَاتُ وَلا النُّورُ

「また、光と闇も。」

 

第21節

(21)وَلا الظِّلُّ وَلا الْحَرُورُ

「また、太陽の熱と影も」

 

この3つの節は、たとえを使って、敬虔な人間と不信心者を比較し、次のように語っています。「あなた方にとって、目が見えない人は、すべてのものを見ることができる人と同じだろうか?同じでないことは明らかである。彼らが理解することは、この世界の真理とは異なっている。なぜなら、一方は暗闇以外のものを感じないが、もう一方は、光と明るさによって、すべてのものを目にするからだ。一方は常に暗闇の中で過ごすが、もう一方は常に、太陽の光の中にいる」

 

とはいえ、目が見えることと見えないことは、創造のときに決まることであり、人々がそれに関与することはありません。しかし、信仰と不信心は、その人自身が決めることです。誰でも、不信心の道を歩むことができます。その結果、不信心の闇に落ち、精神的な目に見えない真理を目にすることを自分の手でさえぎるか、あるいは反対に、信仰の光の中でさまざまな事柄の認識に到達し、神の導きを得ることになるのです。

 

コーランの別の節も、神が預言者たちと聖典を下し、人々が暗闇から光へと導かれるようにしたにも拘わらず、圧制者や不信心者は、人々を光から遠ざけ、暗闇の中に迷い込ませる、と強調しています。

 

自然界では、植物や動物、人間など、生き物の命は、太陽の光と熱から得られ、もし太陽の光と熱が地球に届かず、地球が暗闇に覆われていたら、すべての生き物は滅びていたでしょう。人間の精神も同じです。つまり、人間の精神は、神の光に依存しています。その光は、内側からは本能や理性によって、外側からは預言者の言葉によって確保されるのです。

 

第19節から21節の教え

  • すべての善と悪を比較すること、正しい行いをする敬虔な人間と、悪を行う不信心者の生活を比較することで、私たちは正しい道を判別し、多神教信仰や不信心に陥るのを防ぐことができます。
  • 宗教は人間に洞察力と光を与え、闇から解放されるために必要な知識を得られるようにします。
  • 今回の節では、光という単語が単数形で出てきますが、暗闇という単語は複数形であらわされています。これはつまり、真理の道はたった一つですが、逸脱の道は数多く存在することを示しています。