犠牲祭
ゼルハッジャ月10日の太陽が昇りました。イスラム教徒の壮麗な祝祭の日が訪れています。
今年のメッカ巡礼の儀式は、世界での新型コロナウイルスのパンデミック化により、社会的距離の維持などの厳しい衛生プロトコルを順守する中で開催され、巡礼者の数は例年より非常に少なく、サウジ市民や同国在住の外国人イスラム教徒のみの計1万人ほどとなっています。
夜中のことでした。イブラヒームは神との語らいを終え、寝床に横になりました。それからまもなく、不思議な夢を見ました。
「イブラヒームよ、神はあなたに生贄を捧げるよう求めている。普通とは異なる生贄である。神は、あなたの神への敬愛がどれほど誠実であるかを証明できるような生贄を求めておられる。イブラヒームよ、この試練は非常に重大である。だが、あなたはそれを命じられた。イブラヒームよ、あなたは、息子のイスマイールをメナーの生贄の場所に連れて行き、神の道において生贄に捧げる任務を与えられた」
メッセージは非常に簡潔なものでした。しかし、非常に奇妙で耐え難くもありました。それについて考えることすら難しいのに、それを実行することなど不可能に思えました。イブラヒームは、それは夢に過ぎなかったと考えました。しかし、同じ命令が3回、繰り返され、彼は、そのような困難な任務を実行するために準備しなければならないことを悟りました。イブラヒームにとって、神の道や神のためであれば、不可能という言葉は存在しませんでした。イブラヒームは、神の満足を得るためならば、不可能などということは少しも思わなかったのです。
さらに難しかったのは、そのことをどのように息子に伝えるか、ということです。息子は成長し、その魅力的な姿は人々を魅了するものでした。息子のイスマイールの優しい表情を目にし、イブラヒームの心は揺れていました。心には葛藤が渦巻いていました。しかし、それは迷いや恐怖からではなく、その試練において、神の満足を最高の形で得るにはどうしたらよいか、という考えからでした。
コーラン第37章アッサーファート章整列者、第102節には次のようにあります。
「イスマイールよ、愛する息子よ。夢の中で、神の道においてあなたを生贄に捧げるようにという命令が私に下された。あなたはどう思うか? すると、息子のイスマイールはこう答えた。『父よ、あなたに命じられたことを行ってください。私が忍耐強い息子であることがわかるでしょう』 イブラヒームは安心し、そのような息子を持ったことを神に感謝した。それから息子を抱きしめ、その頭を優しくなでた」
イブラヒームは、神への崇拝と服従からくる強い意志によって立ち上がり、イスマイールを生贄の場所に連れて行きました。しかし、父と息子が神の命に従い、イブラヒームがナイフを息子ののどにつきつけ、イスマイールも命を捧げる準備ができたとき、生贄の命令が神から破棄され、代わりに天から、白い羊が地上に降り立ちました。それから声が聞こえました。
「イブラヒームよ、あなたはあの夢を実現し、任務を果たした。我々はそのような善を行う人々に報奨を与える。これは明らかな試練である。我々は大きな犠牲で彼をあがなった」
イブラヒームは大きな試練を克服しました。それは、神の命への服従によるものでした。彼は、自分の賢明な選択によって、神の命に対する服従を正しく解釈し、真の敬虔な人間とは、言葉だけでなく、全身で神に服従するのだということを教えました。イブラヒームは献身を示し、最高の美徳と高潔さを得ました。多くの人は、自分の命を捧げる用意はできても、大切な子供に害が及ぶことには耐えられません。しかし、息子のイスマイールを生贄に捧げるというイブラヒームの行動は、神への完全な信仰を示しています。
毎年、イスラム教徒の最大の政治的、宗教的な集会であるハッジ・メッカ巡礼の中では、この儀式によってイブラヒームの生贄の出来事が思い起こされます。言い換えれば、犠牲祭は、イスラム世界の大きな祝祭であり、イブラヒームの服従の記憶を思い出す機会です。イスマイールの犠牲は、真の服従と満足のための教訓です。それは、神から命じられたことを、僕は無条件で実行する、ということです。
犠牲祭は、メッカ巡礼儀式のクライマックスです。人々が神に近づく場面です。祝祭の日、創造主である神に心を委ねた巡礼者たちは、大きな情熱を持ってハッジの儀式を遂行します。彼らは健全な動物を選び、それを生贄に捧げ、その後に犠牲祭の礼拝を行います。
生贄を捧げるのは、神に近づき、敬虔さを手に入れるためです。コーランはこれについて、生贄の血や肉によって神が利益を得るわけではなく、神に届けられるのは、あなた方の敬虔さであるとしています。生贄を捧げることは、神を満足させ、人間を成長させるための行動なのです。
純粋なイスラムを復活させたホメイニー師は、犠牲祭について次のように語っています。「犠牲祭は、賢明な人々に、自分の大切にしているものまでも神のために犠牲にするというイブラヒームの行動を思い起こさせる祝祭である。この唯一神を信じ、偶像を壊した父親は、我々とすべての人間に、自分の人生で最も大切なものを神の道に捧げ、報奨を得ることを教えた。自分と自分の愛する人を捧げ、神の宗教と公正を実現することを教えた。また、メッカとメナーは、神を愛する人々が生贄を捧げる場所であり、唯一神信仰を広め、多神教信仰を否定する場所だということを理解させた。命や愛する人への執着は、多神教信仰である」
犠牲祭は、メッカ巡礼の中でも最も偉大な日です。犠牲祭は、イスラム教徒の大きな祝祭の一つであり、イスラム世界で祝祭が催されます。この日の朝から、人々は希望に溢れた心で、礼拝の場所へと急ぎ、心から祈りを捧げます。それから、多くの人が、神の満足を得るために生贄を捧げ、恵まれない人たちを食事に招待するのです。