イマームホサインの蜂起の精神的、理性的な側面
イスラム暦61年、西暦680年、シーア派3代目イマーム、ホサインは、ウマイヤ朝の圧制的な為政者であったヤズィードに忠誠を誓うことを拒みました。
イマームホサインは、純粋なイスラムの価値観を復活させるため、教友たちとともに、ヤズィードに対して蜂起しましたが、数万人というヤズィードの軍勢に対してわずかな数の兵士で立ち向かったため、殉教しました。
今回は、このイマームホサインの精神的、理性的な側面についてみていくことにいたしましょう。
イマームホサインの運動は非常に包括的なもので、それを様々な角度から分析することができます。そのため、歴史を通して、イスラム法学者や学者、芸術家や詩人、政治家や歴史家などが、それぞれの分野で分析を行い、独自の解釈を行ってきました。とはいえ、歴史的な分析や報告の中では、時に逸脱や隠ぺいが見られることもありました。イマームホサインの蜂起は、理性や感情、歴史や社会、神秘主義といった一つの側面から分析されたために、別の側面が見過ごされることになっています。この聖なる運動において注目すべき点のひとつは、精神的な側面とともに、理性的な側面があることです。
イスラムの教えや預言者とその一門の生き方において、理性や知性、英雄伝や神の道における戦い、愛情や精神性は、共に矛盾するものではなく、多くの場合、互いを補い合うものとなっています。なぜなら、さまざまな信条や価値観に基づき、一つの源から生まれたものであるからです。そのため、イマームホサインの運動において、最も崇高な精神的、英雄伝的な側面が、洞察力や見識とともに、ゆるぎない形で存在しています。
イマームホサインは、当時の政治的、社会的、文化的な状況を把握した上で、イスラム社会がどのようにして、少しずつ、イスラムの価値観や宗教を滅ぼす方向に進んでいるかを十分に理解していました。イマームホサインは、社会が、イスラムの復活と宗教的な社会の改革に向かう、根本的な運動を必要としていることを知っていました。その運動とは、理性と洞察力、愛情と献身に基づいたものでなければなりませんでした。この運動のきっかけとなったのは、イスラムとイスラム教徒の利益を脅かしていた危機感にありました。イマームホサインは、ヤズィードのような無能な人物の統治を受け入れておらず、彼に忠誠を誓いませんでした。ヤズィードがどうしてもイマームホサインに忠誠を誓わせようとしたために、イマームはメディナを離れることを余儀なくされました。
イマームホサインは、堕落や圧制に屈しないことを強く決意していたため、兄弟から、イエメンに避難したらどうかという提案があったとき、このように語りました。「神に誓って、世界のどこにも安全な場所がなかったとしても、ヤズィードに忠誠を誓うことはない」 こうしてイマームホサインは、神の安全な聖域であるメッカに向かい、巡礼儀式のためにメッカに来ていた人々と共に対して訴えかけ、当時の状況を彼らに説明しました。その後、メッカ巡礼を途中で切り上げ、クーファに向かいました。クーファの近くまで来たとき、ヤズィードの軍司令官のホルとその軍勢が、イマームとその教友たちの行く手を阻みました。そのため彼らは、カルバラへと方向転換することを余儀なくされました。そのカルバラの地で、イマームホサインと教友たちは、敵に囲まれてしまいました。
イマームホサインは、そのような困難な危機的状況の中で、どのような決断を下したらよかったのでしょうか?屈服や和解はありえませんでした。なぜならそれは、イマームの蜂起や運動の目的にそぐわなかったからです。イマームが固執した唯一の選択肢は、敵に抵抗しながら、導きを与えることでした。
イマームホサインは、アラビア半島を、メッカから現在のイラク南部にあるクーファとカルバラに向かう旅の中で、当時の状況を理解し、次のように語っています。
「正当なことが許されず、不当なことが阻止されない状況が、あなた方には分からないのか? 伝統はすたれ、異端が蘇っている」
イマームホサインはこのような言葉によって、思想的な逸脱、道徳的な退廃、社会的な誤り、宗教的な復活の要素である勧善懲悪の忘却を指摘し、自らの運動を改革、そして自らを改革者と呼んでいます。
このような状況の中、圧制者から宗教を救うためには何が必要だったのでしょうか?イマームホサインは、このような状況を目にし、理性的な行動によって、人々の思想から害悪を取り除こうとしました。イマームホサインは、精神的、信条的な問題だけでなく、当時の社会の政治的、社会的な問題にも、根本的な改革が必要だと考えていました。そのため、このような大きな問題から宗教を救うための唯一の道は、まず、ヤズィードの統治を正式には認めないこと、そして第二に、そのような運命的な抗議の対価を支払うことでした。
イマームホサインは、大きな騒動の中でメッカを離れ、クーファへと向かいます。メッカ巡礼の儀式がまだ終わっていない日にメッカを離れることは、大きな反響を呼びました。実際、イマームホサインは、大きな騒ぎの中で、メッカを離れることを望んでいました。メッカ巡礼者の注目を集めることで、彼らが祖国に帰ったときに、その土地で人々にイマームホサインの蜂起が語られることを望むとともに、イマームが追い求めていた目的の重要性を、一般の人々に明らかにしようとしたのです。宗教的な思想における逸脱は、当時の社会の最大の問題でした。イマームホサインは、社会を導くことを目的に、宗教の真の内容を伝え、社会を指導する地位を説くために、あらゆる機会を利用しました。
イマームホサインがメディナからメッカへ、メッカからクーファ、カルバラへと向かう中で、多くの有力者たちが、そのような危険な旅をあきらめさせようとし、さまざまな方法をイマームに提案しました。一部の人は、ヤズィードに忠誠を誓うよう勧めました。また中には、メディナに留まるよう勧めたり、メッカに避難するようにと言う人々もいました。しかしイマームホサインは、それ以上の目的を持っており、表面的な勝利以上のことを考えていました。イマームホサインの運動にある理性は、物質的な計算を超えたものでした。イマームホサインは、理性に基づいて決断を下し、それを実行しました。このような理性は、時や場所を超えた利益について考え、その場限りの物質的な利益を考慮したものではありませんでした。そのため、この運動の様々な局面におけるイマームホサインの決断は、多くの人にとって、理解しがたいものでした。なぜなら彼らは、個人的、世俗的な利益のみを考え、問題を評価していたからです。
イマームホサインは、その運動や戦略の中で、まず、真理と偽り、正義と悪を明らかにし、人々の考え方を変えようとしました。イマームホサインは、このような方法がうまくいかないと悟ったとき、最後通告を下した後、さらに断固とした態度を示しました。イマームとその教友たちは、最終的に、確かな信仰心と愛情を伴った、勇敢な戦いに立ち上がりました。
こうして、イマームホサインは、理性的な分析とともに、精神的な側面である、忍耐、神への信頼と服従、神の満足、愛情、熱情と献身、神の道における殉教に助けを求めました。イマームホサインの運動のこの2つの側面がある点で重なり合い、イスラム暦61年、西暦680年の、カルバラの地におけるアーシュラーの蜂起となったのです。モハッラム月10日のアーシュラーの日に起こったこの出来事は、知性に基づく勇気とともに最も美しい精神的な特徴を伴い、これにより、永遠の英雄伝が築かれることになったのです。