8月 22, 2022 23:40 Asia/Tokyo
  • イブン・スィーナー
    イブン・スィーナー

イラン暦シャフリーヴァル月(6月)1日は、イランの偉大な医学者イブン・スィーナーの生誕日にちなんで「医師の日」に制定されています。

イブン・スィーナーは、イランが世界に誇る名高い学者で、医学分野において、世界で最も傑出した人物の一人とみなされています。彼が著した医学書は、ある時期まで、世界の最高学府である大学で実際に使われていました。イブン・スィーナーは、イスラム期に最も影響を与えたイラン人の学者、哲学者、医学者の一人です。代表作には「医学典範」、「治癒の書」などがありますが、医学や哲学以外にも造詣が深く、数学、自然科学、音楽、詩にも精通していました。イブン・スィーナーは、多くの作品や書籍を後世に残しましたが、最も代表的な医学と法に関する作品により、彼はヨーロッパにおいて、哲学、とりわけ医学の師として名を馳せています。

【生い立ち】

イブン・スィーナーは、西暦981年頃、当時のサーマーン朝の首都で、現在のウズベキスタンにあるブハラで生まれました。彼の父親はサーマーン朝の関係者の一人で、しばらくの間、ブハラ周辺地域の地方長官を務めていました。イブン・スィーナーは5歳のとき、家族と共にブハラに戻りますが、幼くして既に学問の修得に驚くべき能力を発揮していました。彼は名士だった父から計算、数学、コーランの読誦、アラビア語の文法を教わります。彼は聡明で学ぶことへの情熱が既に芽生えていました。その後学校に通うようになると、最も優秀な生徒との評価を受けました。

イブン・スィーナーは10歳で既にコーランを暗誦しており、また文学や幾何学、アラビア語にも通じていました。彼は動植物や自然に格別の興味を抱き、時間が許せば野原や砂漠に出向いたものでした。薬草の特性や医学に興味を持つに至ったのは子供時代の環境も影響していました。

【学問の修得~医学の道へ】

イブン・スィーナーは12歳のころ、アブドッラー・ナーテリーという当時の大学者から学問を学びます。これ以前にもイブン・スィーナーはイスマーイール・ザーヘドという人物からイスラム法学を学んでいました。イブン・スィーナーは、しばしば学問における新たな側面を理解するほど聡明であり、師を驚かせたものでした。ナーテリーも、イブン・スィーナーの学習活動を強く奨励しました。こうして彼は論理学を学び、後に数学を完全な形で修めました。

イブン・スィーナーは、16歳にして医学の分野で高い地位を得、多くの医者や偉人の相談を受けていました。彼は努力と忍耐のみによって学問を修め、利用できるすべての本を利用し、自身の経験を活かし、偉大な学者が著した本を読み、医学を学んだのです。

18歳のときには、論理学、自然科学、天文学、幾何学、数学を学びました。この頃、イブン・スィーナーは、サーマーン朝の王であるヌーフ2世を診ることになりました。その治療に当たって彼は、ブハラの王立図書館の本を自由に利用できる許可を求めます。なぜなら、この図書館を利用することができたのは王族や貴族だけに限られていたからでした。この図書館は、当時もっとも完全な図書館とされ、貴重な写本や古書の多くが収蔵されていました。

イブン・スィーナーが22歳のとき、父が亡くなりました。この時期、サーマーン朝は衰退しブハラは混乱に陥っていました。そこでイブン・スィーナーは、当時学問や医学の中心地とされ、学者が重んじられていた中央アジアのハーラズムへと赴きます。そこでも尊敬を集めたイブン・スィーナーはこの時期、仕事と研究に没頭したのでした。

イブン・スィーナー

 

【代表作「医学典範」「治癒の書」の執筆】

しかしその後、ガズナ朝の王マフムード・ガズナヴィーがハーラズムに進出すると、学者たちは離散してしまいます。マフムード王の招きによって学者の中には、現在のアフガニスタンにあるガズナに行った者もいました。しかし、イブン・スィーナーはマフムード王の招待を受け入れませんでした。身の危険を覚えた彼はハーラズムから逃れました。そして、何カ所かの都市を転々としたのち、現在のイラン北部ゴルガーンにあたるジョルジャーンという町に落ち着くと、彼の代表的な医学書『医学典範』の執筆にとりかかったのです。この著作は最大の医学書のひとつで、700年近くにわたり、ヨーロッパの学術機関で教えられるほど、何世紀にもわたり、最も重要な医学書とみなされてきました。この書籍には、医学に関する法則や、薬の調合に関するさまざまな内容が含まれています。そして12世紀に翻訳の動きが始まると当時のラテン語に翻訳され、今日に至るまでに英語、フランス語、ドイツ語、日本語に翻訳されています。

ジョルジャーン来訪から1年後、イブン・スィーナーは、レイ、ガズヴィーンを経て、その後ハメダーンのブワイフ朝の為政者シャムソッドウレの元に赴きました。イブン・スィーナーはシャムソッドウレの腹痛を治療し、大臣に登用されます。彼はこのとき、大臣職にある中で、『治癒の書』を執筆しました。この本はイブン・スィーナーの最も重要な著作で、哲学や論理学に関する包括的な作品とみなされ、その中には、古代ギリシャの偉大な哲学者の思想の要旨や、プラトン主義、新プラトン主義などの哲学の解釈に関する批評が記されています。18巻におよぶ『治癒の書』は現在も、イスラム論理学における最も信頼性ある本のひとつとされており、自然科学や神学については、現在も注目されています。

為政者シャムソッドウレの死後、彼の息子があとを継ぎましたが、イブン・スィーナーは大臣職を受け入れず、4ヶ月間監獄に入れられてしまいます。しかし、監獄の中でも彼は本を執筆し、釈放された後はひそかに弟子と兄弟を伴ってイラン中部のイスファハーンへと赴きます。

医学典範

 

【晩年】

イブン・スィーナーはイスファハーンでその地の為政者であるアラーオッドウレの歓迎を受け、その後14年間、穏やかな生活を送りました。この時期、未完だった作品の執筆を終え、哲学や数学、音楽に関する新たな著作を執筆しました。しかし、ガズナ朝の王、マスウード・ガズナヴィーがイスファハーンに侵攻するとアラーオッドウレの統治体制は崩壊します。イブン・スィーナーの家は略奪にあい、著作の一部も散逸してしまいます。しかし、イブン・スィーナーは、最期までアラーオッドウレに仕え、1038年ごろ、アラーオッドウレのハメダーン行きに同行する途中、病に倒れ、58歳でこの世を去りました。

イブン・スィーナーの著作として存在する中で、確かに彼が著したとされるのは131点、おそらく彼の作ではないかとされているものは111点存在します。

イブン・スィーナーは存命中に限らず、後の時代においても名声を博しました。彼の子供時代や業績、聡明さにまつわる様々な逸話が存在します。一部の逸話では、彼は「秘密の事柄を含む全てを知る賢者」と評されています。

イブン・スィーナーは、自身の研究や著作執筆に没頭しただけでなく、何人もの弟子を育てました。そのいずれも、当時の学問の大家として名を成しています。彼は58歳の若さでこの世を去りましたが、自身の信条によって人類の知識に対して大きな貢献を果たしました。彼の廟はイラン西部のハメダーンにあり、今も大勢の人々がそこを訪れています。

イブン・スィーナーの廟

 

【哲学的思想】

イブン・スィーナーはイランおよびイスラム世界で最初の、哲学に関する完全で秩序立った著作を記した人物でした。ギリシャの2大哲学者、プラトンとアリストテレス、そしてイランの哲学者ファーラービーが、イブン・スィーナーの哲学形成に大きな影響を与えたとされています。

アリストテレスの形而上学を40回読んでもなお、その内容を理解することができなかったイブン・スィーナーでしたが、その後、ファーラービーが記した形而上学の注釈書に触れ、それがきっかけで、アリストテレス哲学を理解することができたと話しています。彼は何よりもアリストテレス哲学を活用していましたが、アリストテレス哲学とは若干異なる、新たな哲学的見解を持ち、いわば独立した哲学の持ち主でした。

イブン・スィーナーのギリシャ哲学の思想的影響は、単純にその思想を繰り返し語るというのものではありませんでした。彼はイスラムの神学にも注目を寄せ、イスラム的思想を自身の哲学の中に取り入れようと試みました。彼は晩年、哲学における新たな思想を獲得したということが伺える著作を執筆しましたが、残念なことにこれは現在、散逸しています。

明らかに、イブン・スィーナーは、イラン・イスラム文明において最もよく知られた思想家の一人です。なぜなら彼もまた、ファーラービーのように、学問の分類に効果的な役割を果たしたからです。イブン・スィーナーはまた、数学に論理学を用いました。彼は、学問の習得には、ひとつの方法ではなく、数多くの方法があることを証明した人物です。

哲学は、イブンスィーナーによって、当時、非常に大きな発展を遂げました。彼は、数学や哲学に貢献するとともに、プトレマイオスの天文学を批判しました。しかし、彼の最も特徴的な活動は、医学書の執筆だと言っても過言ではないでしょう。イブン・スィーナーは、この本の中で、イスラムに沿った形で、最も完全なアリストテレスの自然哲学を提示しました。これは、イスラム哲学者だけでなく、西洋の学者たちの思想にも影響を及ぼしました。

イブン・スィーナーの哲学的な思想は、アリストテレス哲学でした。彼は多大な努力によって、イスラム世界に逍遥(しょうよう)学派の基盤を定着させることに成功しました。とはいえ、逍遥学派は新プラトン主義の色合いを帯び、イスラムの思想的な原則を守っていました。復活について、イブン・スィーナーははっきりと、肉体の復活は、理性的、哲学的な方法では証明できないが、預言者がそれを明らかにしているのだから、私たちもそれを信じるべきだとしています。

イブン・スィーナーの哲学体系は、概して、特にその一部の原則の点で、彼の後のイスラム哲学や中世ヨーロッパの哲学に深い影響を与えました。イブンスィーナーは、逍遥学派の構造に革新をもたらし、アリストテレスの思想のあいまいな点を明らかにし、新プラトン主義などの思想の要素を用いて、新たな哲学体系を築くことに成功しました。彼は、死後の魂の存続について、魂は肉体の死によって滅びることはないとしています。

イブン・スィーナーは、自身の哲学的な見解を、イスラム教徒の考え方に適応させようと努めました。彼はすべての問題を、コーランの内容から独立した理性的な方法によってのみ議論していました。そのせいでしばらくの間は、不信心者や無神論者の象徴と見なされ、彼の著書を燃やすことが奨励されてしまいます。例えば、イブンスィーナーの没後60年、ガザーリーは、哲学を批判する著書の中で、彼を不信心者と見なしていました。これは、ガザーリーが、「イブン・スィーナーは、肉体の復活、詳細な問題や世界の出来事に対する神の知識など、こうした哲学的な問題において誤っている。宗教とは相いれない内容を記していた」と考えていたからでした。

とはいえ、イスラムの歴史を通して、不信心や無神論で非難を受けた哲学者は、イブン・スィーナーだけではありませんでした。彼の後も、多くの哲学者が表面的な事柄を信じる人々によって非難を浴びたのです。ガザーリーを初め、表面的な事柄を信じる人々は、宗教の表面のみを考え、深い解釈を行ってはいなかったのです。

【終わりに】

2003年、イランの提唱によるイブン・スィーナー賞の開設がユネスコ会議で採択されました。この賞は、国連で正式に認められた、学術における倫理をテーマとする唯一の賞となっています。イブン・スィーナーは、イスラム文明の繁栄に効果的な役割を果たしただけでなく、西洋の文明、特に医学に大きな影響を与えました。幸いにも、今日この役割に対し、かつてないほど世界の学術・文化界の注目が集まっています。近年、イランの尽力とユネスコの支援により、ベラルーシで、彼の著作「医学典範」の1000周年を記念する会合が開催されました。ユネスコのボコバ事務局長は、この会合にメッセージを寄せ、イブン・スィーナーの学術的な地位を称賛し、次のように語っています。

「東洋の天才、イブン・スィーナーを称える国際会議への出席は大きな栄誉である。この会議は、人間の体を知る最初の百科事典として知られるイブン・スィーナーの著作の1000周年を記念して開催された。彼はイランで生まれ、彼の多くの作品はアラビア語であるが、すべての人類のものである。なぜなら彼の作品は、何世紀にもわたってヨーロッパやアジアで使用されてきたからだ」

 


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