今なお地雷の恐怖とともに暮らすカンボジア人・アメリカがもたらした災厄
ベトナム戦争の最中にアメリカがカンボジアに行った攻撃では、50万トン以上の弾薬が11万3000カ所に投下されたと言われています。
ベトナム戦争下の1970年4月30日、アメリカ軍は隣国のカンボジアに陸空から侵攻・占領しました。
当時のニクソン米大統領は、カンボジア侵攻の目的をベトナムからの米兵撤退の機会を稼ぐためと主張しました。
カンボジアはベトナム戦争の開始前に中立を表明していました。
ニクソン大統領は「超大国であるアメリカが弱さを見せれば、暴徒やナショナリスト、共産主義者らが世界を支配するようになり、アメリカや資本主義陣営の利益を脅かすようになる」と述べ、カンボジア侵攻を正当化しました。
隠された戦争
ニクソン政権で国務長官を務めたキッシンジャー氏は、このカンボジア侵攻をできるだけ国民に伏せたまま進めようとしました。
それにより、アメリカが使用した爆弾などに関するデータの公表は禁止されました。
アメリカによる侵攻で犠牲となったカンボジア人の数は、100万人にものぼると言われています。
政治・社会体制の破壊とクメール・ルージュの支配
キッシンジャー氏により計画・実行されたカンボジア侵攻は、同国の政治・社会体制を脆弱なものにしました。一部地域では100万人以上の農民がアメリカの爆撃から逃れるため難民と化しました。
また、政治体制の混乱が生じたことで、クメール・ルージュが政権を掌握し、その後国民の4分の1を虐殺しました。その数は160万人から300万人にのぼると言われています。
いまだに恐れる農民
アメリカによる侵攻の傷跡はいまもなおカンボジアに残り続けています。農民らは、米軍の不発弾が爆発することを恐れて、満足に農作業に従事することができません。
米国内の大学の抗議運動への弾圧
カンボジア侵攻は、米国内の反戦運動に火をつけました。運動を弾圧するため州兵が出動し、オハイオ州のケント州立大学では抗議運動に参加していた学生4人が州兵に射殺されました。
占領の終わり
国内での抗議運動の高まりをうけて、議会はニクソン政権に圧力をかけ、1970年7月に米軍はカンボジアから撤退します。その後、アメリカはカンボジアに親米政権を樹立しますが、ベトナムでの敗北後、この政権も崩壊しました。
カンボジアからの撤退から5年後の1975年4月、アメリカはベトナムからも撤退することになります。