西側の思想家が考える預言者ムハンマド(3)
コーラン第61章サフ章戦列、第6節には次のようにあります。 「思い起こすがよい。マルヤムの息子、イーサーがこう言ったときのことを。『イスラエルの民よ。私は神からあなた方に遣わされた。私以前に送られた書物を承認し、また私の後に来る預言者に吉報を与えるためである。その預言者の名はムハンマドである』」
イスラムの預言者ムハンマドに関して、ヨーロッパの一部の学者らが記した(最近の)作品は、それ以前の人々の作品よりも現実的なものとなっています。彼らは、可能な限り、神の最後の預言者であるムハンマドという人物を、よりよく紹介しようと努めました。ウィリアム・モンゴメリー・ワットの「ムハンマド、預言者と政治家」という本は、そうした研究の中でも最も有名なものです。
ワットは、イギリスのエディンバラ大学の東洋・イスラム学の教授でした。彼の専門は、預言者の言行、コーラン解釈、神秘主義哲学、イスラム世界の歴史でした。ワットは1937年、ある出来事をきっかけにイスラムに傾倒しました。その年、ワットの家を借りていたのは、パキスタン出身のイスラム教徒の学生でした。ワットは彼と知り合ったことが、それまで全く知らなかったイスラムという宗教を知るきっかけになったとしています。
ワットは、イスラムの教えを知った後、預言者の生涯に関する研究に取り掛かりました。彼は1953年、「メッカのムハンマド」、そして56年には、「メディナのムハンマド」という本を記します。その後、この2つの作品を、「ムハンマド、預言者と政治家」という本にまとめました。ワットは次のように記しています。
「私は40年前から、ムハンマドに関して記す際、常に、彼がコーランは自分が記したものではなく、上の世界から啓示されたものだと言っていたことを強調してきた。1953年にメッカのムハンマドを記したときから、私は常に、コーランが神の言葉であることを信じてきた」
ワットは、「ムハンマド、預言者と政治家」の中で、預言者ムハンマドについて次のように記しています。「一人の預言者の偉大さのしるしは、その人物の考え方が、人々の注目を集めるかということである。ムハンマドは、その宗教的な戦いや勇気を伴った行動における決断力、強さといった性質により、人々の信頼と尊敬を集めていた。彼はその美しい言動により、人々の優しさや友情を得、彼らの自己献身欲をかきたてていた。確かに、イスラムの普及は、イランとローマの帝国の衰退、社会的な不満が要因だったかもしれないが、実際、預言者ムハンマドの美徳がなかったら、イスラムはこれほどまでに広がっていなかっただろう」
ワットの作品は、イスラム教徒の賞賛と注目を集め、彼の数多くの著作が翻訳されています。イランやアラブの研究者が、ワットの作品について批評していますが、彼らは皆、ワットが中立な立場の東洋学者であることで意見解が一致しており、イスラムの強みや預言者の崇高な人格、他の東洋学者の過ちを認めています。ワットは、中東学者たちに対し、「イスラム教徒と良好な関係を築きたければ、我々がイスラム文化に負っていることを認めることである。それを隠すことは、高慢さのしるしである」と語っています。ワットによれば、イスラム教徒は大きな業績を伴った文明の代表者であり、ヨーロッパの人々は、自分たちがイスラム世界の大きな恩恵にあずかっていることを認めるべき時が来ているのです。