故山村邦子さんの回想録『日出づる国からの移住者』を読む
イラン在住の日本人女性・山村邦子さん(イラン名:サバー・バーバーイーさん)が84歳で亡くなったのは、先月1日のことでした。
山村さんは20歳の時にイランに移り住み、最期の時まで暮らしました。次男のモハンマドさんが1980年代のイラン・イラク戦争で殉教してからは、「ただ一人の日本人殉教者の母」として知られるようになります。
『日出づる国からの移住者』はそんな山村さんの回想録であり、最近になってイラン最高指導者のハーメネイー師により推薦文が書かれました。その推薦文の披露式典が今月22日に開かれる予定です。
同書は、ハミード・ヘサーム氏がマスウード・アミールハーニー氏の協力を得て著したもので、スーレ・メフル社から出版されました。好評を得たことから6言語に翻訳され、これまでに18回再販されています。
山村さんはこの著作の中で、自身の波乱万丈の人生について語っています。夫との出会いを通じてイスラム教を知った時のことから、イランへ移住した時の話、1963年に起きた当時の王政に対する民衆蜂起(ホルダード月15日の蜂起)や、その後の1979年の革命勝利、イラン・イラク戦争といった数多くの出来事が語られています。
著者のヘサーム氏はこれまでにもイラン・イラク戦争の回想録を出版してきた経験がありますが、『日出づる国からの移住者』は他のいずれとも異なる作品であると語っています。ヘサーム氏は、女性たちによるイラン・イラク戦争の回想録は、80年代のイラン社会の問題の新たな側面を提示してくれると考えています。これらの女性たちは、自立した英雄・勇者的なアイデンティティを持ち、銃こそ手にしていないものの、戦線に立っていたとヘサーム氏は強調します。
山村さんの人生で興味深いのは、彼女の回想録を読むと、聖典コーランから導かれるイスラム的生活様式を深く知ることができるという点です。また、彼女の回想はイランと日本の2つの文化、また神道寄りの仏教とシーア派イスラムという2つの信仰を示しています。こうした点から、彼女の回想録は対イラク戦争に関する他の女性たちの回想録とは異なっています。
山村さんは1938年、兵庫県芦屋市で生まれました。しかし、彼女の本当の人生は、20歳の時の恋愛から始まりました。おそらく季節は春だったのでしょう、満開の桜がどの若者たちからも理性を奪っていたに違いありません。山村さんは、ある若いイラン人男性に心を奪われていました。強い信仰心を持ち、近くイランへ帰るというこの男性への愛以外はすべて忘れ、周りの反対を押し切って、彼と結婚するのです。
結婚当初、2人はお互いの母語を解せず、英語でやり取りせざるを得ませんでした。山村さんはこの時、ペルシア語の単語は「アーガー」と「ハーノム」(それぞれ男性・女性を呼ぶ時の敬称)しか知らず、夫のことをいつも「アーガー」と呼んでいました。山村さんにとってこの単語は、単なる愛情表現だけではなく、愛そのものでした。山村さんは、「アーガーは私の人生の進路を変え、新しい世界へ導いてくれた」と語っています。
「アーガー」の振る舞いや行動を通じて、山村さんはイスラム教に惹かれていきます。これは間違いなく重要なことでした。もっとも、イランと日本の共通点も無視することはできません。そのうちのひとつが、両国ともアメリカによって同じ傷を負ったということです。第二次世界大戦が終わった年、山村さんはまだ7歳でした。その年、数日間の間に広島と長崎がアメリカによる原爆投下を受けます。山村さん曰く、この苦い傷は、戦後の「ギブ・ミー・チョコレート」でも癒えることはありませんでした。
『日出づる国からの移住者』は、山村さんへの52時間におよぶインタビューをまとめたものです。本文では山村さんの語ったことをそのまま記していますが、注釈で内容の正誤に触れ、山村さんの家族や友人の発言などを援用して、より多くの情報を読者に提供しています。
本は、山村さんの誕生と当時の日本の状況から始まり、第二次世界大戦を経て、1960~70年代のイランでの波乱万丈の人生、次男モハンマドさんの殉教後に始めた文化・芸術活動までを取り上げています。著者のヘサーム氏は、平易で誇張することなく山村さんの回想を記すことに努めています。
この本はまた、非常に詳細な本でもあります。山村さんの幼少期や日本での家族との暮らしなど、遠い昔のことでありながら、イラン人読者にとって新鮮で魅力的に、美しくかつ正確に記しています。
山村さんは平易で親しみやすく、飾ることなく読者を惹きつけ、まるで読者自身も彼女と一緒に旅をするかのように、その人生へ誘います。それは、我々が信仰と称しているもの、我々の行動に表れてくるもの、そうしたものから、我々が本当にあるべき姿、今日の人間のまだ目覚めきっていない精神への旅です。
山村さんが最期までアーガーと呼んでいた、夫のアサドッラー・バーバーイーさんは、イスラムを堅固に忠実に彼女に与えました。それにより山村さんは、革命期の抵抗運動の中で、正しいと信じた方へ活発に自発的に参加し、新しい祖国・イランの同胞とともに要求を叫ぶようになります。
イランは、アメリカの直接・間接の介入を受けた最初で最後の国ではありません。しかし、このような革命と威厳によって、アメリカとその傀儡を永久に国土から追放した唯一の国です。山村さんは、このような他に類を見ない出来事が成功裏に進展したことについて、イラン最高指導者の存在とその指導力について述べています。
『日出づる国からの移住者』の本文から一部をご紹介しましょう。
山村さんは、幼少期から現在までの思い出を類まれな正確さと平易な言葉で語る。日本の仏教徒の家庭で生まれ、20歳を超えるまでその思想の中で暮らしていたが、あるイラン人イスラム教徒と結婚することで人生を大きく変えることになる。そして、革命・イスラム精神を育み、19歳だった息子が「押し付けられた戦争」(イラン・イラク戦争)の前線で殉教するまでになる。
この殉教者の母の人生を他と異ならしめている出来事は、彼女の人生を通じて起きている。彼女はこのことについて、「自分の人生が本になるとは全く想像もしなかった。もし、日本の家族のもとに残っていたら、ごく普通の人生を送っていただろう。しかし、あるイラン人ムスリムと出会ったおかげで、私の人生は変わり、彼を通じて新しい、それまで知らなかった世界に足を踏み入れた」と語っている。
著者のハミード・ヘサーム氏は、山村さんと知り合ったいきさつや、この本を記すまでのことについて次のように書いています。
2014年の夏、イランの化学兵器被害者のグループ9名とともに、広島の平和記念式典に招待された。出発する空港で、ヒジャーブをかぶった東洋風の出で立ちの女性が、我々の通訳として紹介された。この旅が、私と山村さんの出会いの始まりだった。彼女は、ドバイから東京までの長いフライトの最中、ずっとコーランを読んでおり、時折、平易でありながら斬新な言葉遣いで自らの思い出を私に語ってくれた。日本で化学兵器被害者と原爆の生存者らが面会した際、私は化学兵器被害者らの咳き込む音に耳をそばだて、目は両者の話を涙を流しながら訳す山村さんを見つめていた。私は次第に彼女の人生を知りたいと思うようになった。その時まで、彼女が唯一の日本人殉教者の母であることは知らなかった。
その年から、彼女の半生を本にすることを常に考えてきた。私は、自分の中のルールとして、彼女にインタビューする前に、彼女と親交を築くことにした。7年かけて、あらゆる理由を見つけては彼女と面会する機会を設け、その内面世界に飛び込み、彼女の人生に起きた出来事を追体験した。そして、ようやく彼女は、まだ明かしていなかった自らの秘密を語ることを受け入れたのだ。
山村さんは数カ月前から呼吸疾患を患い、テヘラン市内の病院に入院していましたが、去る7月1日に亡くなりました。
山村さんが取り組んだ活動には、昨年の東京パラリンピックでのイラン選手団の名誉団長、テヘラン平和博物館の設立、慈善バザールのオープン、イラン留学中の日本人学生への支援、コーランの学習指導などがあります。次男のモハンマドさんも、革命前から多くの活動に従事し、イラン・イラク戦争では19歳と若年ながら前線に赴き、イスラムとイランを守るため殉教しました。
山村さんは夫を亡くした後、イラン中部のヤズドに「モハンマド・バーバーイー」という名の学校を設立し、現在460人の児童が学んでいます。
山村さんは生涯を通じて、テヘラン平和博物館の計画に携わり、イラン・イラク戦争中にイラクが仕掛けた化学兵器攻撃による被害の目撃者として、世界平和の実現のためにできる限りの尽力を続けました。