ラマザーンへのいざない(19) ラマザーン月に全ての人々に慈しみをもって接すること
(last modified Sat, 01 Jun 2019 12:30:00 GMT )
6月 01, 2019 21:30 Asia/Tokyo
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今回は、ラマザーン月に全ての人々に慈しみをもって接することについてお話することにいたしましょう。

イスラムの預言者ムハンマドは、聖なる月・ラマザーン月について次のように述べています。

“この聖なる月には、貧困者や恵まれない人々に施しをし、年長者に敬意を払い、年少者を慈しみ、親戚づきあいを密にするがよい。同時に、自らの口をつつしみ、宗教上禁じられているものに視線を向けたり、耳をそばだてたりしないようにし、親のない子供たちを哀れみ、神に向かって懺悔をするがよい”

 

 

ラマザーン月には、それまで以上に神の慈しみが大地に降り注がれます。ラマザーン月は、情愛と慈しみ、希望と恩恵に満ち溢れた月なのです。崇高なる神は、この月に精神的に弱い人々を励まし、必ずしも全ての人々がたどる事のできない、神の満足や天国行きという最終目標につながる道に足を踏み入れるよう促します。しかし、一方で神は罪びとであれ、神のみに全神経を集中する善人であれ、全ての人々を助けるのです。

断食をすることで、人々は貧困者への同情や共感に目覚めます。断食をする人は、一時的な空腹やのどの渇きを体験する事で情愛が芽生え、飢餓に苦しむ人々や恵まれない人々の置かれた状況をよりよく理解できます。そして、結果的には自分より苦しい状態に置かれている人々の権利を蹂躙せず、恵まれない人々の苦しみを忘れないように、人生の軌道を修正する事につながるのです。

 

シーア派6代目イマーム・サーデグは、ある有名な伝承において次のように述べています。

“断食が義務付けられている理由は、貧しき者と富める者の間に平等を徹底させることにある。そして、このことは富める者が空腹や飢餓を現実のものとして体験し、貧しい人々に権利を与えることを意味する。それは、恵まれている者は欲しい物を何でも手に入れられるのが普通だからである。また神は、自らの僕たちの間を平等にしたいと考えており、そのために恵まれた人々に空腹や苦しみを体験させる事で、彼らが恵まれない人々や空腹に苦しむ人々に情けをかけるようになることを望んでおられる”

 

ラマザーン月には、それまで以上に神の慈しみの裾野が広がり、全ての人々が神の催す宴へと招かれることになります。この宴では、裕福な人と貧しい人が同席し、全ての人々が抱える悩みや問題を解決するために、互いに祈祷をささげます。こうした祈祷は、同胞愛や全ての人々への注目、そして彼らの間の宗教面での違いを問わない事を示しています。こうした祈祷に、シーア派の有名な祈祷として知られる、救いの祈祷があります。

 

それではここで、その救いの祈祷をお届けしましょう。この美しい祈祷では、全人類に対する慈しみや情愛が謳われています。

 

”おお、神よ、今は亡き全ての人々に喜びをもたらしたまえ。

おお、神よ、恵まれない人々や助けを必要とする全ての人々のニーズを満たし、全世界の飢えに苦しむ人々を満腹させたまえ。

おお、神よ、全世界で衣服のない全ての人々に着るものを与えたまえ。

おお、神よ、負債を抱えている全ての人々の負債を解消したまえ。

おお、神よ、悲しみに打ちひしがれている全ての人々の悲しみの源を払拭したまえ。

おお、神よ、祖国から遠く離れている全ての人々を、無事に彼らの祖国に帰還させたまえ。

おお、神よ、世界のあらゆる場所で囚われの身となっている人々を解放させたまえ。

おお、神よ、我らの苦境を、そなたの楽しき時間となしたまえ。

 この祈祷は、完全に包括的な祈祷であり、性別や肌の色、言語や人種、宗教の違いを問わず、全ての恵まれない人々のために祈るためのものです。

 

 

1人のイスラム教徒にとって、同胞への支援はイスラム教徒や、それ以外の人々に対してであれ、はたまたこの広大な世界のいずれの場所に住んでいる人に対してであれ、意味的に変わりはありません。イスラム教徒は、自分には全ての人々に対する支援という義務が課されていると見なし、自分中心主義から脱却して自分が求めるものを、他人のために求めるのです。

このため、ラマザーン月の祈祷では、「全ての」という言葉が「全ての人々」という意味で使われており、「おお、神よ、全ての貧しき人々の必要を満たしたまえ、飢えに苦しむ全ての人々を満腹にしたまえ」といった表現が出てきます。実際に、この祈祷に秘められた慈しみの範囲は非常に広く、現在国境を越えて全世界に住む人々に限らず、既にこの世を去っている人々をも含み、彼らの喜びをも希求しています。

 

それでは、ここからは任意の寄付や施しについてお話することにいたしましょう。

任意の寄付や施しは、富の分配のためにイスラムが強く奨励している事柄の1つです。この行為が最高のものとして完成するのは、自分の大切にしているものを差し出したときです。

一部の人々は、他人への寄付が許されるのは、他人に分け与えようとしているものを自分が必要としないときであり、そうでない場合は他人への寄付は許されない、と考えています。しかし、人間が本当の意味で善良な行動をする人の仲間入りをするには、自分が本当に大切にしているものを寄付する必要があります。

これについて、コーラン第3章、アール・イムラーン章、「イムラーン家」第92節には次のように述べられています。

“あなた方が、自らの大切にするものを神の道において施すまでは、本当の意味での善なる行いには到達しないであろう”

コーランのこの節は、自分よりも他人を愛し、自分の大切にしているものや財産を他人に分け与えなさい、ということを意味しています。

 

この点については、イスラムの預言者の娘ファーティマが、自分が嫁ぐ日の夜、自らの花嫁衣裳を貧しい人に与えた、という逸話があります。さらに、父である預言者ムハンマドがこのことに気づき、お前の新しい服はどこかと尋ねられたとき、ファーティマは預言者ムハンマドに向かって、それを貧しい人にあげたと告げました。さらに、お前の古着をあげたらよかったのに、という預言者ムハンマドの言葉に対し、ファーティマは次のように述べています。

“私にはそのとき、自分の大切にしているものを他人に分け与えなさい、というコーランの節を思い出しました。それで私は、自分の真新しい花嫁衣裳を貧しい人に分け与えたのです”

この伝承は、イスラムが着るもののない人に服を着せ、恵まれない人のニーズを満たすことについて、どのような事柄を奨励し、指示しているかを物語っています。さらに、先にご紹介した救いの祈祷でも、通常の礼拝の後に必ず、神に向かって、世界中の着るもののない人に、衣服が与えられるよう唱えることが推奨されています。

さらに、救いの祈祷では、悲しみに打ちひしがれたすべての人々の問題が解決されるように、との希求がなされています。

 

そもそも、人々が悲しみにくれていない社会は、躍動的ではつらつとしており、またそうした社会の人々は破壊行為や混乱、揉め事やそのほかの好ましくない現象を引き起こそうとはせず、常に自分や他人のやすらぎのために努力しています。喜びにあふれた社会では、人々がより神と近しくなります。これについて、預言者ムハンマドは、次のように述べています。

“ほかの信徒たちに喜びを与えた人々は、私に喜びを与えたことになり、私に喜びを与えた者は、神を喜ばせたことになる”

このような部類の喜びを与えることとしては、貧しい人に食物などの支援をしたり、道に迷っている人を目的地に送り届けること、金銭を貸し与えるといったものがあり、これらは人々の問題を解決し、彼らに笑顔が戻る事につながります。

 

 

この祈祷における同胞愛や慈しみは、対象とする貧しい人をイスラム教徒かそれ以外の人かによって区別することはありません。この点は、コーラン第76章、アル・インサーン章、「人間」に出てくる有名な出来事においても、完全に明らかにされています。コーランのこの章においては、シーア派初代イマーム・アリー、その妻で預言者の娘であるファーティマ、彼らの2人の息子のシーア派2代目イマーム・ハサン、3代目イマーム・ホサインらが断食をし、断食終了後の夕食・エフタルを3人の貧しい人々に施したことが述べられています。ちなみに、施しを受けたこの3人は、コーランの説明によればそれぞれ貧しい人、孤児、そして捕虜だったということです。

預言者一門によるこの施しの中でも、特に考えさせられるのは、捕虜への支援です。当時、イスラム軍と不信心者との間に戦争が起こったことから、ここに出てくる捕虜は間違いなく、イスラムの滅亡を目的に戦い、イスラム軍の捕虜になった不信心者たちだったはずです。しかし、イマーム・アリーたちは、自らが食物を必要としていたにもかかわらず、それをイスラム軍の捕虜に与えています。このため、イスラム教徒であるかどうかには関係なく、全ての捕虜が救いの祈祷に適用されることになります。

 

ラマザーン月は、イスラムの聖典コーランが下された聖なる月であり、コーランと導きの光により悪魔のような性質をいつくしみ深い性質に変えることができます。すなわち、裏切りではなく信頼が、敵愾心ではなく情愛が、不足の心ではなく感謝の心が、また悪ではなく善が、失望ではなく希望が、へつらいや追従ではなく神にすがる気持ちが生れてくるのです。自分の心の内面に潜む欲求ではなく、神の満足につながる事柄が定着し、悪い状態に変わって好ましい状態が出来上がります。悪い状態とは、悪魔の誘惑や心の内面に潜む欲求にそった行動や考え方の集合体であり、全ての人々にいつくしみ深い神に対し、それらをよい方向に転換するよう求める必要があります。このため、救いの祈祷では、神に対し、私たちの悪い状態をよい状態に転換させるよう求める文言が見られます。

 

最後に、救いの祈祷では人類が常に求めている理想の社会像について述べられていることに触れておきたいと思います。まさに、このような社会の実現のために全ての預言者や宗教の先駆者、公正な人々や神の預言者一門は努力に励み、自らの命をも犠牲にしていました。しかし、様々な理由によりそうした理想は実現されないままとなっています。

シーア派12代目イマーム・マハディの出現を待ち望む全ての人々の間では、こうした祈祷をはじめ、全ての貧しい人や飢えに苦しむ人々のニーズが満たされ、着るもののない人々に衣服が与えられるようにとの希求は、まさにイマーム・マハディの統治のもとでのみ実現すると考えられています。そして、この救いの祈祷こそは事実上、現在はお隠れ中で将来の出現が約束されている、全人類の救世主イマーム・マハディが姿を現すよう求める祈祷なのです。

 

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