サファヴィー朝の陶器製造
今回はサファヴィー朝の陶器製造についてお話しすることにいたしましょう。
16世紀にサファヴィー朝という名の王朝がイランで形成され、およそ200年に渡ってイランを支配しました。サファヴィー朝時代には、建築、絵画、金属細工、織物、絨毯、建築装飾など様々な芸術が最高潮に達し、価値のある優れた作品が生み出されました。
自身が有能な商人だったサファヴィー朝のシャーアッバースの時代、イランの国内外から技術を持った職人たちがイスファハーンに集まり、この町をイスラムの芸術作品の生産地に変えました。シャーアッバースは、数多くの工房を建設し、その時代に陶器などの芸術を開花させました。サファヴィー朝の陶器は、ケルマーンの単色の陶器やマシュハドの多色使いの陶器など各種のものがあり、花、人間、動物、植物、鳥の模様が使用されていました。
サファヴィー朝の陶器は、技術的な点から、幾つかのグループに分けることができます。
コーバーチーと呼ばれる器は、白地に黒、赤、茶色、緑、青で模様が描かれており、透明な釉薬がかけられています。またイズニークはオスマン帝国時代の器の影響を受けたもので、白色の釉薬と、様々な模様、色とりどりの美しいデザインを伴っていました。一方、ギャンベルーンと呼ばれる陶器は、この時代の最も美しい陶器でした。ギャンベルーンはイラン南部のペルシャ湾岸にあるバンダルアッバースの古い呼称で、白色と透明の陶器が作られており、その装飾は青と黒の非常に優美なものでした。こうした中、サファヴィー朝時代の終わりには、ケルマーンとマシュハドで、白と青の陶器が製造されるようになり、次第にそれは瑠璃色に変わっていきました。
サファヴィー朝時代、セラードンという名の新しい陶器が広まりました。これは当初中国のの器の影響を受けたものでした。しかしながら、イランの陶器職人は、独創性により、新たな装飾や模様を加え、セラードンという名の美しい陶器を生み出しました。セラードンは本体が固く、暗い緑と明るい緑で作られていました。装飾の点から、かたどった模様や浮き彫りの模様など様々な種類に分けられ、竜や魚、不死鳥、複雑な雲、ハスの花などのデザインが見られます。この器の縁には文字が書かれており、時にそれが装飾の一部を成していました。セラードンの器の製造の中心地に関しては十分な研究が行われていないことから、多くの情報は存在しませんが、ケルマーン、ソルターニーエ(アラーク)、イスファハーン、バンダルアッバースでこの種の陶器が見つかっています。
歴史的な経過が示しているように、サファヴィー朝の繁栄は長くは続きませんでした。この王朝が滅亡し、有力な政府が衰退した後、さらに西と東の世界との接触が、イランの芸術の様式に多くの変化を生じさせ、過去の様式での様々な芸術の創出が、ある程度廃止されました。アフガン人の襲撃とサファヴィー朝の滅亡の後も、多くの陶器工房が活動を続けましたが、この工房から生まれた作品は過去の優れた作品には及びませんでした。
およそ1400年のイスラム時代の陶器芸術を検討してみると、概してこの時代に、陶器が新たな段階に入ったことが明らかになります。文学や経済、書道、絵画との関係において形作られた陶器は、前の時代のものとは多くの違いがありました。イスラムの陶器のデザインや模様はこの時代の陶器製造の最も重要な段階であり、特別な重要性を有しています。イスラム教徒の陶器職人は、コーランの節や詩の傍らで自然の模様を装飾として使用していました。
イランの伝統工芸における重要な芸術の一つとして、陶器を知るために、その重要な作品をご紹介しましょう。ミーナーと呼ばれるエナメルの陶器は、イランで長い間製造されてきた最も美しく豪華な陶器です。これまで見つかった中で最も古いエナメル陶器は、紀元前15世紀に属するもので、本体にガラスの粉で装飾が施されているエジプトの器です。アケメネス朝時代、アルカリ性の釉薬のかけられたエナメルのレンガが製造され、それはイラン南西部のシューシュにあるアパダナ宮殿の敷地内で見つかっています。これらのレンガには二つの装飾方法が見られます。一つは浮き彫りの模様を持つ釉薬のかけられたシリコンのレンガ、もう一つは色とりどりの模様が施された滑らかなレンガです。これらのレンガは砂と石灰が混ざったものでできており、すべてのレンガがかたどって造られており、3度に渡って窯の中で焼かれています。
第一段階では土台を作り、第二段階で釉薬がかけられます。そして第三段階で、酸性で色のついた透明な素材のシリコンの釉薬がそれに加えられます。ミーナー陶器を製造するためには、ガラスの練り粉、あるいは陶土を使用します。ミーナー陶器の製造において広まっていた方法は、600年期のカーシャーンや一部のイラン中部の都市の製造方法に関するもので、おそらくネイシャーブールやサマルカンドの陶器工房に端を発しています。彼らは、陶器を焼いた後、それらに模様を施し、再度窯に入れ、白色の模様を生み出していました。この方法は750度から温度を下げながら何度も陶器を入れるなど非常に複雑なものです。
ミーナー陶器の装飾には幾何学模様、草花模様があり、その多くが器の内部の表面に描かれていました。黒、白、茶の唐草模様とクーフィック体に似た文字が内と外の縁に施されているエナメルのお椀は12世紀から13世紀に作られた貴重な作品です。
ミーナー陶器の動物や人間の模様には、王たちの狩り、叙情物語や演奏家たちが含まれており、時にフェルドースィーの王書から影響を受けたものもありました。鳥の絵や、二人の人間の間に木が描かれているものがよく見られます。とはいえ、この陶器の人の顔はそれほどはっきりしておらず、女性と男性の着ているものにも違いはありません。さらに、この模様や装飾は写本と調和するものとなっています。専門家の中には、写本をデザインした人はミーナー陶器の絵付けの責任を負っていた人々だったと考える人もいます。
ミーナー陶器に使用されている色は、瑠璃色、緑、トルコブルー、赤、茶、あるいは黒、黄色、白となっており、ある場合にはすべての色が一度に、また別の場合には一部の色が使用されています。サーヴェ、ナタンズ、レイ、ソルターンアーバード、カーシャーといった町はこの種の器の製造の中心地と言われていますが、考古学的発掘によれば、ミーナーの陶器は陶器製造の中心地からレイに移送されていたことがわかっています。