2月 21, 2017 15:57 Asia/Tokyo
  • ロヒンギャ族、世界で最も虐げられた少数民族

ミャンマーのロヒンギャ族は、世界で最も虐げられた少数民族として知られています。彼らに対する圧制は日ごとに拡大していますが、世界の主要なメディアがそれについて伝えることはほとんどありません。

この世界で最も虐げられた少数派は世界のどこで、どのように暮らしているのでしょうか?

 

2017年1月、ソーシャルメディアで、ロヒンギャ族の1歳4か月の乳児の遺体を映した衝撃的な映像が公開されました。この遺体は、川のほとりの泥の上に放置されていました。この痛ましい映像は、昨年、世界中に衝撃を与えた、トルコの沿岸に打ち上げられたシリア難民の幼い子供の姿を思い起こさせるものです。IRIBの東南アジア専門家のバフティヤーリー記者は次のように語っています。

 

「この幼い難民は、ミャンマーのラカイン州のロヒンギャ族のイスラム教徒で、ムハンマドという名前だった。この子と家族は、ロヒンギャ族に対する暴力から逃れるため、ラカイン州を脱出しようとしていたが、ムハンマドと彼の3歳の兄、そして母親と叔父は、バングラデシュとの国境にある川で溺れてしまった」

 

この1歳4か月の乳児の父親は次のように語っています。

 

「この映像を見るたびに、私が代わりに死んでいたらと思います。この世で生きている意味がなくなりました」

 

ミャンマーのロヒンギャ族のイスラム教徒は、世界の他の少数派以上に迫害されています。ミャンマー政府は、彼らをバングラデシュの移民と見なしていますが、国際監視団は、彼らをラカイン州の原住民と見なしています。ムハンマドの父親の話です。

 

「私たちの村は、軍のヘリコプターに爆撃され、ミャンマー軍の兵士からの攻撃も受けました。私たちは家に留まることができなかったため、森に逃げました。私の祖父と祖母は二人とも、生きたまま焼かれました。軍は私たちの村を完全に焼き尽くしました。何も残っていません」

 

ムハンマドの父親は、彼らは暴力から逃れるために村から村へと逃げたとし、こう続けています。

 

「私は6日間歩き続けました。4日間、米を食べることができませんでした。この6日間は全く眠れませんでした。軍がロヒンギャ族のイスラム教徒を追っており、私たちは常に場所を変えていました」

 

ムハンマドの父親は、この旅の中で家族と離れ、バングラデシュとミャンマーの間を流れるナフ川にたどり着きます。そしてバングラデシュ人の漁師の助けを得て国境を脱します。この男性は、その後、家族もバングラデシュに移動させようとしました。彼は次のように語っています。

 

「私はボート乗りを見つけ、彼に妻と子供たちが川を渡るのを助けてほしいと頼みました。冬のある日、彼らと連絡を取りました。彼らはすっかり希望を失っていました。私が家族と連絡を取ったのはこれが最後になりました。妻と話していた時、下の息子が私を呼ぶ声が聞こえました」

 

この電話の数時間後、男性の家族の脱出作戦が開始されました。しかし、ミャンマーの警察は、何人かが川を渡ろうとしているのを見つけたとき、彼らを攻撃しました。ボート乗りの男性は、銃撃を逃れるために人々を急いで乗り込ませました。ボートは人員オーバーで沈みました。家族の父親は翌日、電話の連絡によって、その事件を知りました。男性はこのように話しています。

 

「電話の連絡をもらい、息子の遺体が見つかったと言われました。彼は携帯電話で息子の遺体の写真を撮り、私に送ってきました。何も言うことができませんでした」

 

この家族の物語は、ロヒンギャ族の家族が日々、経験している痛ましい出来事を語っています。国際移住機関の発表によれば、この数か月、数週間で、およそ3万4000人がミャンマーとバングラデシュの国境を通過しています。ムハンマドの父親は次のように語っています。

 

「何人のロヒンギャ族の遺体が水の中にあるのかは、川だけが知っている」

 

ミャンマーは東南アジアの最貧国で、1948年にイギリスから独立しました。独立運動の中で、この国のイスラム教徒はイギリスの植民地主義に対して全力で抵抗しました。この抵抗により、イギリスはイスラム教徒の力を奪うために分離政策を実施し、この中で、仏教徒をイスラム教徒に対抗させました。1942年、仏教徒はイギリスの武器を使って野蛮な殺害を始め、10万人近いイスラム教徒が死亡しました。

 

ロヒンギャ族のイスラム教徒の社会は、7世紀、この地域に形作られました。歴史の中では、数百年のイスラム自治政府を有していたこともあります。政府の統計によれば、ミャンマーには80万人近いイスラム教徒が暮らしており、この国の人口の4%を占めています。しかし、ミャンマー政府の人種差別的な政策を考えると、この統計は信頼できるものではなく、独立系の情報筋は、実際はこの数字をはるかに上回り、1500万人に達すると見ています。

 

この数十年、ミャンマーのイスラム教徒は政府や仏教徒の暴力を受けており、集団で殺害されたり、祖国を追われたりしています。ミャンマーからバングラデシュに逃れたイスラム教徒は、1978年には30万人、1988年には15万人、1991年には50万人と見られています。1992年にも再び、数十万人のイスラム教徒が国を追われました。

 

1970年代まで、ロヒンギャ族は、ミャンマーで合法的な少数派と見なされていました。1982年の憲法改正後、軍事政権が樹立され、イスラム教徒は市民権を失いました。その後、軍事政権は少しずつ、イスラム教徒に対して個人的、宗教的な迫害を行うようになりました。こうした圧力により、何千人というイスラム教徒が近隣諸国に逃げました。ミャンマー政府のイスラム教徒に対する圧力は、9.11後にさらに拡大しました。これは、ミャンマーの政府が西側の影響を受けていることを示しています。

 

ミャンマーのイスラム教徒に対する犯罪の新たな波の中で、仏教徒は罪のない何千という人々を殺害してきました。2012年6月3日、数百人の仏教徒が、ラカインにあるモスクからヤンゴンに向かっていたイスラム教徒の乗ったバスを襲撃しました。この襲撃で、8人のイスラム教徒が殺害されました。

 

この犯罪の目撃者の話です。

 

「仏教徒は、イスラム教徒を殺害し、その遺体を道の端に重ね、つばをかけたり、酒を注いだりして、自分たちの勝利を祝っていた」

 

集団殺戮が始まってからおよそ2か月後の2012年8月、死者の数は2万人を超えました。

 

独立系の情報筋は、これまで、仏教徒によって行われているこの民族浄化に関して、明白な根拠を見つけ出すことができていません。ミャンマーのイスラム教徒が、この国の歴史の中で仏教徒に対して犯罪を行ったことはありません。また、統治体制に対して外国の政府を支援したことはなく、彼らを裏切ったことを示す歴史資料も存在しません。

 

公共の場で女性に暴行を加えること、イスラム教徒に非道徳的で禁じられた行いを強要すること、これらは、ロヒンギャ族の少数派に対して行われている犯罪の一例です。ミャンマーのイスラム女性のアーイシャ・ソルヒーさんは、エジプトの新聞アルワタンのインタビューで次のように語っています。

 

「ミャンマーの仏教徒は、イスラム教徒に豚肉を食べるか酒を飲むか、でなければ自ら命を絶つかを選ばせようとし、イスラム教徒はこのような生き方よりも死を選んでいる」

 

ロヒンギャ族のイスラム教徒の物語は非常に恐ろしいもので、人権監視団の多くは、これは彼らがこれまでに直面した中で最悪の状況だと語っています。国連人権高等弁務官事務所の4人の監視団の団長は次のように語っています。

 

「正直なことを言えば、彼らの話を聞くことは耐えがたいものだった」

 

この監視団の調査結果が先週発表され、それは非常に衝撃的なものでした。その情報は、昨年10月にミャンマーのラカイン州からバングラデシュに逃げた7万人のロヒンギャ族のうち、204人の男女を対象に作成されたものです。ほとんどの回答者は、殺害された人、暴行を受けた人、消息を絶った人を知っていました。

 

4人の監視団の団長は次のように語っています。

 

「これほど短期間のうちに多くの人の話を聞き、これほど多くの被害を耳にしたことはこれまでになかった」

 

国連の人権研究者は、ミャンマーの警察や軍によるイスラム教徒への暴行や迫害、嫌がらせに関する報告が、非常に衝撃的なものであったことを認めています。

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