9月 01, 2017 19:57 Asia/Tokyo
  • ハーラズミー
    ハーラズミー

これまでの番組の中で、さまざまな民族の間でイスラムが現れ、急速に広がり、様々な文化を惹きつけたことで、文明と文化の大きく確かな基盤が打ち立てられたこと、その中では様々な人種や民族が役割を果たしたことについてお話ししました。

これらの民族は、イスラムの価値観を頼りに、イスラム文明と呼ばれる文明を築くことに成功しました。この文明の形成には、さまざまなグループや民族が役割を果たしましたが、イスラム教やアラビア語が、彼らを統一させる要素となりました。この文明は、偉大さと広大さを誇り、そのすべての側面を知ることは非常に難しくなっています。

 

この黄金時代の特徴には、当時の知識において傑出した学者や研究者の存在がありました。彼らは物理学においても、宗教学においても驚くべき知識を有し、のちに西洋文明にも広がるような学問の基礎を築きました。これまでの番組では、この時期のイスラム文明の形成と開花に役割を果たしたファーラービーとイブンスィーナーという2人の学者についてご紹介しました。今夜のこの時間は、同じような役割を担った学者についてお話しし、次回からは、現代に入ります。

ジャービル・イブン・ハイヤーン

 

ジャービル・イブン・ハイヤーンとハーラズミーは、8世紀の偉大な2人のイスラム学者です。ジャービル・イブン・ハイヤーンは、イスラムの預言者ムハンマドが、メッカからメディナに移住した年からおよそ100年後に、現在のイラン北東部のトゥースに生まれ、バグダッドで、アッバース朝のカリフ、ハールーン・アッラシードの宮廷の錬金術師となりました。彼は常に、銅や鉛といった価値のない金属を金に変えることを考えていました。彼はそれに成功することはありませんでしたが、化学の基礎を築きました。

 

ジャービルの最も重要な功績は、物理学、自動装置、哲学、医学、錬金術の分野のものです。イスラム法学者の間では、ジャービルは、学者、哲学者、数学者、天文学者、医学者、論理学者、作家であり、これらの学問において多くの作品を残した人物として知られています。このことは、彼の努力と知性の高さを示しています。

ハーラズミー

 

ハーラズミーは、780年ごろ、ハーラズムに生まれました。彼は、イスラム世界の最初の優れた数学者であり、知識の館で育ち、インドの学問を習得するため、インドにわたりました。この旅の中で、インド数字を知り、それを自身の著書の中に用いました。彼の著書「代数学」がラテン語に翻訳された後、数学に大きな革命がおこりました。この作品は、代数学におけるイスラムの最初の著書であり、アルゴリズムという名でラテン語に翻訳されました。そのため、西洋の数学者は、ハーラズミーが発見した計算法を、アルゴリズムと呼んでいます。

ザキャリヤー・ラーズィー

 

アブーバクル・ムハンマド・ザキャリヤー・ラーズィーも、イスラム文明の形成に影響を及ぼした学者の一人です。ラーズィーは、865年に現在のテヘラン南部にあるレイに生まれ、925年に同じ町で亡くなりました。

 

ラーズィーは、10歳の時に父親を亡くしました。彼は当時の学問の中心地で、多くのモスクがあり、学術集会が開かれていたレイの町で、数学、哲学、天文学、文学を学びました。ラーズィーは、これらの学問と同時に、化学も習得しました。ラーズィーは、ジャービル・イブン・ハイヤーンを自身の化学の師としていました。

 

ラーズィーは、銅を金に変えるために多大な努力を払い、この道において目を傷つけました。彼は30歳の時にレイで医学を学び始め、その後、バグダッドに渡りました。9世紀のバグダッドでは医学やその他の学問の翻訳が盛んに行われ、病院が設置され、すべての学者をバグダッドに集めたカリフの力が、医学を学ぶ上で適した雰囲気を生んでいたからです。

 

ラーズィーは、世界的な医学の分野でイニシアチブを発揮したばかりか、薬学の分野においても大きな発展をもたらしました。ラーズィーは、エタノールを発見し、硫酸の研究を行い、この2つの物質の特徴を発見し、薬学を切り開きました。実際、ラーズィーの医学と化学における功績を除いたとしても、彼は薬学においても優れた学者だったと言えるでしょう。

アブーレイハーン・ビールー二ー

 

アブーレイハーン・ビールー二ーも、イスラム文明の形成に影響を及ぼした学者の一人です。彼は973年にハーラズムに生まれました。ビールー二ーは、ガズナ朝のスルタン・マフムードとともにインドを旅し、この地域の豊かな文化を知るために、サンスクリット語を学びました。この旅により、インドの宗教や慣習に関する報告となる「インド誌」を著しました。

 

ビールー二ーの著書はおよそ180作品にのぼると言われています。アブーレイハーンの記述や著書、歴史学者の話から、彼が、当時、さまざまな学問に精通した傑出した人物であったことがうかがえます。このことは、彼の記述の奥深さや著書数の多さからも理解することができます。彼は多くの議論を提起し、新たな理論を生み出しました。

 

ビールー二ーは、物理学、地理学、数学、天文学に関する数々の著書や翻訳を残しました。彼は、イギリスのフランシスベーコンよりも600年も早く、論理学を紹介しました。彼の作品はほとんどラテン語に翻訳されることがなかったため、最近まで、西洋の人々に知られることはありませんでした。

イブン・ハイサム

 

イブン・ハイサムも、イスラム世界で知られた学者であり、965年にイラン南部のアフワーズに生まれ、1040年にエジプトのカイロで亡くなりました。イブン・ハイサムは、学問の習得に大きな関心を持ち、論理学などの学問では神に近づくことができないと感じたため、自然科学と哲学を極めるようになりました。

 

イブン・ハイサムは、学問の習得への関心により、バスラで省庁の職を退き、エジプトに渡りました。彼は多くの学問、特に光学の諸原理の発見に大きく貢献しました。彼の作品は、数学、物理学、天文学など、およそ100冊に上りますが、残念ながら、その大部分は失われてしまいました。

 

イブン・ハイサムは、光学に関する正確な実験により、光学の父として知られ、のちに、写真機や映画のカメラなどの製造につながる変化を生み出しました。彼の光学に関する研究は、ヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。

 

ヨーロッパの中東学者は、イブン・ハイサムの作品について幅広い研究調査を行い、この学者の能力を称賛しています。彼は19世紀末まで、光学に関する著作によって称賛されていましたが、彼の作品に関するより詳しい研究が行われたことにより、彼が数学に関する多くの困難な問題の解決にも貢献したことが明らかになりました。

ハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィー

 

ハージェ・ナスィーロッディーン・トゥースィーも、イスラム文明の黄金時代の学者の一人です。彼は1201年にトゥースに生まれました。ハージェナスィールは、学問の習得に多大な関心を持ち、幼少のころから数学、天文学、哲学において傑出し、当時の著名な学者の一人となりました。

 

ハージェナスィールは、イスラム思想の歴史において、最も著名な人物です。彼は宗教学などを父親のもとで、自然科学と論理学を叔父のもとで学びました。その後、ネイシャーブールで学業を終え、そこで優れた学者として知られるようになりました。

 

ハージェナスィールは、ブーアリースィーナーと同じように政治の世界に入り、フラグハンが彼が学者であることを知ったために、殺害されずに済みました。ハージェナスィールの存在と、彼がバグダッド征服の際にフラグハンに同行したことによって、モンゴル王朝の皇帝がイスラムを取り入れたことは、彼の生涯において特別な出来事となっています。ハージェナスィールは、当時の政治的、社会的、軍事的な圧力、危険な出来事や混乱にもかかわらず、およそ190篇の著書や論文を記しました。