12月 09, 2021 22:01 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン、アールイムラーン章イムラーン家
    聖典コーラン、アールイムラーン章イムラーン家

今回は、コーラン第3章アールイムラーン章イムラーン家をご紹介することにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

「アリフ、ラーム、ミーム。唯一の神以外に、生き生きと永遠の保護者である存在はない。[彼は]書物を正しく汝に下した。それは以前の書物の中にあったしるしと合致する。ユダヤ教徒の聖典と、キリスト教徒の聖典を、これ以前にも人々を導くために下した。真理を偽りと区別する書物を下した。神の節に背を向けた人々には厳しい懲罰がくだる。神は報いを与える全能の方である」

 

イスラム初期、アラビア半島南西部のキリスト教徒の60人の集団が、イスラム教について研究するため、メディナにやって来ました。彼らの中に、アブーハーレサという名前の、有力で賢い男がいました。アブーハーレサは、キリスト教徒の宗教書の全てを完全に暗記していました。この60人のキリスト教徒は、預言者のモスクに入りました。彼らの礼拝の時刻になりました。彼らは東に向かって礼拝をはじめました。預言者の教友たちは、それを止めようとしましたが、預言者は教友たちに対し、キリスト教徒に自由に礼拝を行わせるよう求めました。その後、キリスト教徒の代表者たちは預言者のもとにやって来ました。預言者は彼らをイスラムへといざないました。しかし彼らは言いました。「私たちは、あなた以前にイスラムをもたらし、神に服従しています」 

 

預言者は言いました。「あなたたちは、神に子供がおり、預言者イーサーを神の息子とみなすような自分の宗教を、神の教えだと信じている。だが、このような考え方は神の教えに反するものだ」 するとキリスト教徒の偉人たちは言いました。「イーサーが神の息子でないのなら、彼の父親は誰になるのだ?」 預言者は言いました。「あなたたちは、息子というものは、父親に似るものだと考えるか?」 キリスト教徒の代表たちは、そう思うと言いました。すると預言者は尋ねました。「私たちの神は、全てのことに精通し、他を必要としない。また存在物の日々の糧は神からのものであるか?」 キリスト教徒の代表たちは、その通りだと言いました。預言者は再び尋ねました。「では、イーサーにそのような性質があるか?」 キリスト教徒の代表はそれを否定しました。預言者は続けて言いました。「天と地にある全てのものは神の目を免れない。神は全てのことを知っておられる」 キリスト教徒の代表たちは、「そんなことは分かっている」と言いました。預言者は言いました。「イーサーは、神から教えられた以外のことを、自分自身で何か知っていただろうか?」 キリスト教徒の代表たちは、それを否定しました。預言者は言いました。「私たちの神は、イーサーを母親の胎内で望みどおりの姿に描いた方である。イーサーの母親は、彼を他の子供たちと同じように胎内に宿し、それから他の母親と同じようにこの世にもたらしたのではなかったか?」 キリスト教徒の代表者たちは、その通りだと答えました。預言者は言いました。「それなのになぜ、イーサーが神の息子でありえるのか。父親に全く似ていないというのに」 そのとき、キリスト教徒たちは皆、黙りこくりました。そこで大天使ジブライールが預言者のもとに降り立ち、コーラン第3章アールイムラーン章イムラーン家の80節以上が下されたのです。

 

 

アールイムラーン章は、アル・バガラ章の後にくる、コーランの3番目の章です。しかし、神から下された順番でいくと、この章は89番目にあたり、メディナで預言者に下されたメディナ啓示です。コーラン解釈者の多くは、アールイムラーン章が下されたのは、バドルとウフドという2つの戦いの間、イスラム暦2年から3年の間であるとしています。アールイムラーン章は全部で200節あり、コーランの中でも長い章の一つとなっています。

 

 

アールイムラーン章の第7節は、コーランの節を確かな節と曖昧な節に分類しています。確かな節とは、その内容が明らかであり、その意味に議論の余地はなく、誰でも簡単に意味が理解できるものです。例えば、「言え、彼は唯一の神である」という節がそれにあたります。一方で、曖昧な節とは、聞き手や読み手にとって、その意図が明瞭ではなく、少し聞いただけでは、その意味を理解することができない節です。このような節を理解するには、確かな節を参照し、その助けを借りて、曖昧な節の意図を理解する必要があります。アールイムラーン章の第7節は、確かな節を、書物の母、根本と読んでいます。なぜなら、これらの節は、他の節を説明しており、参照すべき節であるからです。研究者たちは、確かな節は大通りで、曖昧な節は、そこから枝分かれする路地のようなものだとしています。人間は、この枝分かれした路地で路頭に迷ってしまったとき、大通りに戻って、そこから自分の道を改めようとするでしょう。

コーラン解釈者、タバタバーイー師

 

イランのコーラン解釈者、タバタバーイー師は、次のように記しています。「コーランは、自分自身で自分のことを説明している。その一部の節は、他の節の解釈を説明するものとなっている。例えば、第20章ターハー章ター・ハー、第5節、『彼は慈悲深い神であり、玉座にいる』、これは曖昧な節である」 タバタバーイー師は、この節を説明する中で次のように語っています。「この節を聞いたとき、神が玉座にいるとは、何を意味しているのかがすぐには分からないだろう。だが、他の節を見たとき、神が何かの上にいるというのは、他の存在物が何かの上にあるのと同じではない。それが意味するのは、実際、神が世界と創造物を支配しているということであり、どこかの場所に寄りかかったり、何かの上に座っていることを意味するのではない。それは物質的な存在物がすることである」

 

神はアールイムラーン章第14節で、次の点を指摘しています。

「女性や子供を愛すること、金や銀の莫大な財宝、優れた馬や家畜、田畑など、様々な欲望に従うことは、人々には魅力的に見える。これらは皆、現世の楽しみである。[だがこれらは人生の最終目標ではない。]良い結末は神のもとにある」 

そして次の第15節には、次のようにあります。

「あなた方に、これ以上のよいことを知らせようか? 敬虔さを保つ人々は、神の御許で木の下を小川が流れる楽園がある。彼らは永遠にそこに留まり、神の満足と清らかな配偶者を与えられる」

 

「神はアーダム、ヌーフ、そしてイブラヒームとイムラーンの一族を、世界の人々よりも優れたものとした。彼らは子孫であった。一部が別の世代から現れた。神は全てを聞き、知っておられる」

アールイムラーン章第33節、第34節

 

この節は、至高なる神から、人類社会の向上と導きのために人々の中から選ばれた人物や民について触れています。そうした民とは、アーダム、ヌーフ、そしてイブラヒームの一族とイムラーンの一族です。イムラーン章がよく知られているのは、この章で、イムラーン家の一族の物語が語られているからです。イムラーンとは、マリヤムの父、預言者ムーサーの父の名前です。とはいえ、この章が意味するイムラーンは、マリヤムの父親であり、イムラーン家とは、マリヤムとその息子であるイーサーの一族のことを指しています。彼らは清らかで優れた人々でした。彼らの物語については、この章の後半に語られています。

 

アール・イムラーン章では、様々な問題が提起されていますが、その大部分は啓典の民と彼らの精神的な特徴、考え方や信条について述べています。その他には、神の家が人々にとっての避難場所であること、不信心者との友好を避け、彼らに従わないこと、知らない人たちに頼らないこと、様々な民族の中でもイスラム共同体を手本とすることなどについて述べられています。また、この章では、闘争における抵抗や困難の中で気力を失わないこと、神の道における努力の重要性、神の御前における殉教者の尊さについても触れられています。

 

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