コーラン、第5章アル・マーイダ章食卓(2)
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聖典コーラン
今回は、コーラン第5章アル・マーイダ章食卓の後半の節を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アル・マーイダ章は第27節から31節まで、アーダムの子供たちの物語、ハービールが兄弟であるガービールによって殺されてしまう出来事について触れています。第27節には次のようにあります。
「アーダムの2人の息子の物語を真理に基づいて彼らに語りなさい。彼らが[神の許に]生け贄を捧げたとき、一人は受け入れられたが、もう一人は受け入れられなかった。そこで[行いを受け入れられなかった兄弟は、もう一人の兄弟に]言った。『私はお前を殺してやる』 彼はそれに答えて言った。『神は敬虔な人間のみを受け入れる』」
アーダムには、ハービールとガービールという2人の息子がいました。ハービールは家畜を飼い、ガービールは農作物を育てていました。彼らが神に近づくための行いをするよう求められたとき、ハービールは、最高の羊を生け贄に捧げ、ガービールは自分の畑で取れた最も質の悪い作物を用意しました。ハービールの捧げ物は受け入れられましたが、ガービールのそれは神に受け入れられませんでした。そのため、行いを受け入れてもらえなかった方が、もう一人に嫉妬心を抱き、彼を殺すと脅迫したのです。
しかし、清らかな心を持ったハービールは、ガービールに言いました。
「私たちの行いが神に受け入れられるか否かは、その行いと私たち自身の目的による。あなたが私に嫉妬するのは間違っている。神は、清らかで純粋な心による行いを受け入れられる。神に受け入れられるのは、清らかで健全な精神を伴った行いである」
しかしガービールは悪意に満ちた心により、ハービールを殺そうと決意し、実際にそれを実行しました。これにより、地上で初めての殺害が行われたのです。悪い行いをする人々のほとんどの動機は、この嫉妬によるものです。神はこれらの節の中で、嫉妬の結末は、自分の手で、自分の兄弟を殺してしまうことになるほど、ひどく悲しいものだということを人間に教えています。
この節は、アーダムの息子たちの物語を語った後、第32節で全体的な結論を述べています。
「このようにして、我々はイスラエルの民に記した。誰でも人間を殺した者は、殺害を行わず、地上で悪事を働いていなくても、全ての人を殺害したのと同じであり、人間を生き返らせ[、死から救っ]た者は誰でも、全ての人を救ったのと同じである」
この節は、人類社会は一つの体であり、その社会の個々人は、その体の各器官と同じである、ということを指摘しています。この社会の誰かが損害を蒙れば、その影響は他の人々にも明らかになります。言い換えれば、罪のない人を殺害すれば、実際、罪のない他の人をも危険に晒す用意があることを示します。また、友情によって他人を死から救った人は、それ以外の人々も救う用意があることを示します。コーランによれば、一人の人間の生と死は、社会全体の生と死に等しいものではないものの、それに近いとしています。そのため、「もし不当に誰か一人を殺害すれば、全ての人を殺害したのと同じだ」とするコーランの言葉は、人権に関するコーランの考え方を明らかにしています。一人の人間を殺害することは、全ての人間を殺害することに等しい。人権擁護を主張する人々の中に、これほど広い意味で人権という問題を取り上げている人がいるでしょうか?
「信仰を寄せた者よ。あなた方のうち、誰でも自分の宗教に背を向ける者は、覚えておくがよい。[神に損害を与えるわけではない。なぜなら]神は将来、神から愛され、自分たちも神を敬愛するような民をもたらすからだ。彼らは敬虔な人々に対しては謙虚に優しく、また不信心者に対しては厳しい。そして神の道において戦い、非難する人々の悪口を決して恐れない」
これは、アル・マーイダ章の第54節です。この章で強調されている問題の一つは、イスラム教徒は自分たちの栄誉と誇りを保ち、不信心者の支配を受け入れないということです。神は、「不信心者による支配を受け入れれば、宗教から外れ、不信心に陥り、滅亡する」と警告すると同時に、もし不信心者の危険に晒されなかったり、様々な出来事において、彼らの助けを借りることになったからといって、彼らに寄り添ったりすれば、覚えておくべきだとしています。神の宗教が消滅することはありません。全身に神への信仰と愛情を溢れさせる人々がいます。彼らは、宗教を守るため、神の道において戦い、身を捧げ、何ものをも恐れません。興味深いのは、神が敬虔な人間について説明する際、次のように語っていることです。「彼らは敵に対してはあれほど厳しい態度を取るが、互いに対しては非常に謙虚で穏やかである」

預言者が使命を授かってから数年が経った頃のこと。イスラム教徒の数は少なく、敵の圧力やいやがらせを受けていました。預言者はイスラム教徒を保護し、アラビア半島のヒジャーズの外に彼らの拠点を築くため、彼らの一部に、現在のエチオピアに移住するよう命じました。預言者の指示により、ジャアファル・イブン・アビーターリブとその他のイスラム教徒たちが、メッカの多神教徒の嫌がらせを逃れるためにエチオピアに移住しました。メッカの多神教徒は、イスラム教徒がエチオピアに移住したことを聞きつけ、イスラム教徒を拘束し、メッカに引き戻そうとしました。彼らはエチオピアの王の許に行き、イスラム教徒について悪口を言い、イスラム教徒を自分たちに引き渡して欲しいと頼みました。
エチオピアの王はキリスト教徒でした。彼は会議を開き、イスラム教徒に関するメッカの多神教徒の代表たちの主張が正しいか否かを突き止めようとしました。この会議には、イスラム教徒、クライシュ族の代表者と、キリスト教徒の思想家、宮廷の人々が参加しました。エチオピアの王は、イスラム教徒のジャアファルに対し、自分たちの信条に関する説明を求めました。ジャアファルは言いました。「神は私たちの中から預言者を遣わし、私たちに、神に別のものを配する多神教崇拝から遠ざかり、堕落や悪、圧制や博打を行わないようにと命じられた。また、私たちに礼拝を行い、喜捨をし、公正と善に努め、自分の親類に援助するようにと命じられた」
エチオピアの王は、「預言者イーサーも、同じ使命を授かっていた」と言い、ジャアファルに尋ねました。「では、あなた方の預言者に下された節を暗記しているか?」 ジャアファルは、「はい」と答え、それからコーランの節を朗誦し始めました。ジャアファルは、預言者イーサーとその母マリヤムを称賛する、コーランの印象的な節を読み上げました。これらの節は、そこにいた全ての人に感銘を与え、キリスト教徒の思想家たちの目からは、熱情の涙が溢れました。エチオピアの王は言いました。「神に誓って、これらの節の中には、真理のしるしが示されている」
クライシュ族の代表の一人が、イスラム教徒をメッカに連れて帰るため、自分たちに引き渡してほしいとエチオピアの王に求めたとき、王はその要請を拒否し、ジャアファルとその教友たちに向かって言いました。「私の国で、心安らかに暮らしなさい」 こうして、メッカのイスラム教徒はこの地を確かな拠点とし、イスラム教徒が十分な力を得るまで、新たに信仰を寄せた人々はそこに送り込まれるようになりました。
新たな宗教であるイスラムについて、ユダヤ教徒とキリスト教徒は異なる対応を見せています。預言者がメッカからメディナに移住した後、メディナのユダヤ教徒は最初、預言者と契約を結びましたが、後に、それを破り、多神教徒と手を組んで、イスラム教徒に対する陰謀を企てました。コーランは、ユダヤ教徒が多神教徒と共謀し、イスラム教徒に敵対したことを非難しています。一方で、キリスト教徒に関する見解は異なっており、第4章アン・ニサーア章婦人、第82節から85節では、この2つの啓典の民のイスラム教徒に対する接し方について述べられています。第82節と83節には、次のようにあります。
「あなたは、信仰を寄せた人々に対して最も優しい人々を、『私たちはキリスト教徒である』と言う人々の仲に見出すであろう。これは、彼らの中に、学者や司祭がおり、彼らは[真理に対して]高慢にならないためである。預言者に下された節を聞くたびに、彼らが、悟った真理のために、目に涙をためるのを見るだろう。彼らは言う。『主よ、私たちは信仰を寄せました。だから私たちを証人として記録してください』と」
この章ではまた、ガビールの物語、正義への誓い、合法とされた・ハラールと禁じられた・ハラームの食べ物に関する戒律、そして礼拝の前に体を清める際の戒律、社会公正、報復刑、盗難に対する罰などについて述べられています。この章は、神は全てのことに力を持ち、天と地、その間にあるものは絶対的に神に支配されているという言葉で締めくくられています。
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