コーラン、第16章アン・ナフル章蜜蜂(4)
今回も引き続き、コーラン第16章アン・ナフル章蜜蜂についてお話しましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アン・ナフル章の第90節は、道徳的、人間的、社会的な問題に関するイスラムの最も包括的な教えの例を述べ、次のように語っています。
「まことに神は、公平さや善い行い、身内や親類に対する寛容さを命じ、他人に対する侵害や醜い行いを禁じる。神はあなた方に訓戒を与える。恐らくあなた方は受け入れるであろう」
公平さとは、創造世界のすべてが中心に据える原則です。天と地、全ての存在物は、公正によって打ち立てられています。この広大な世界の一端を担う人類社会もまた、そのような世界の法則の例外ではありません。公正なくしては、人間としての健全な生活を続けることはできないのです。公正は、非常に重要な要素ですが、時に、それだけでは十分ではありません。そのためこの節では、公平さと共に、善い行いという言葉が出てきます。この2つは共に、社会の改善に大きな役割を果たします。シーア派初代イマーム、アリーは、次のように語っています。「公平さとは、人々の権利が守られることであり、善行とは、人々に優しく親切にすることである」
この節では、圧制、堕落、醜い行いから遠ざかるよう命じ、人間に対し、他人への侵略や圧制を控えるよう求めています。この節は、イスラムの世界的な憲章として、常に、思想家たち、特にコーラン研究者たちの注目を集めてきました。なぜなら、世界に公正や善行が広まり、堕落や醜い行い、圧制といった逸脱への対処がなされれば、あらゆる堕落や災難の存在しない、穏やかで繁栄した世界が作られるでしょう。
一人の男が、預言者のもとにやって来て言いました。「私の近所にゲイスという名前の人物が住んでいます。彼は私の土地の一部を無理やり、奪っています」 預言者は、ゲイスを呼んで、この問題について尋ねました。彼は、すべてのことを否定しました。そのため預言者は、神に誓うよう言いました。ゲイスが立ち上がって、誓いを立てようとしたとき、預言者は彼に猶予を与えて言いました。「今日のところは帰って、これについて少し考えなさい。それから誓いを立てなさい」 その後、人々に、偽って誓うことと、その結果を避けるように呼びかける節が下されました。預言者がこの節を読んだとき、ゲイスは言いました。「その通りです。私は枯れの土地の一部を奪いました。でも、どのくらいなのかは分かりません。今、彼の取り分を返還し、それに相当する分も加えて与えるつもりです。それはこの期間に、私が彼の土地を利用してきた分です」
そのとき、アン・ナフル章の第97節が下され、信仰を持ちながら善い行いをした人々に対し、清らかな人生という吉報が与えられました。
「敬虔な人間ならば、男であろうと女であろうと、誰でも相応しい行いをするだろう。我々は明らかに、その人に清らかで幸せな人生を送らせるだろう。我々が彼らにあたえる報奨は、その行いよりも好ましいものとなる」
善行と信仰の結果は、現世における清らかな生活です。清らかな生活とは、圧制や裏切り、憎しみやわだかまりといった、あらゆる穢れのない生活のことです。社会的にも、安らぎと安寧、平和、友愛に満ちた社会の実現を意味します。そのような社会では、混乱はなく、圧制や犯行、侵略による苦痛からも離れています。
アン・ナフル章の第114節は、人々に対し、神が日々の糧として与えた者の中から、清らかで合法なものを食べ、神の恩恵に感謝するよう求めています。イスラムは、禁欲を認めていません。そして人々に対し、神から与えられる日々の糧を、合法で清らかなものである限り、利用し、恩恵に感謝を捧げるよう求めています。このように、穢れた食事を食べることは禁じられています。また、禁じられた方法によって用意された食事を口にすることも、たとえ、それ自体は清らかな食事であったとしても、禁じられています。