コーラン第62章アル・ジュムア章金曜礼拝(2)
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聖典コーラン
今回も前回に引き続き、コーラン第62章アル・ジュムア章金曜礼拝についてお話します。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アル・ジュムア章はメディナで下され、全部で11節あります。
アル・ジュムア章で述べられているのは、さまざまな存在物による神への賞賛、イスラムの預言者の召命の目的、ユダヤ教徒が逸脱したように、神の教えの原則から逸脱しないようにという敬虔な人間たちへの警告、死は永遠の世界への扉であること、金曜礼拝の建設的な計画とそれに参加するために労働を休む必要性といった事柄です。
死に注目すること、それがアル・ジュムア章で提起されている問題です。自分たちを選ばれた民と考えていたユダヤ教徒は、“自分たちは神の子である”、あるいは、“神の特別な友人である”と主張していました。コーランは、このような根拠のない主張に対し、次のように語っています。
「言え、『ユダヤ教徒よ、あなた方[だけ]が神の友人で、他の人々はそうではないと考えるのなら、死を願うがよい。もし本当のことを言っているのなら』」
この節が意味しているのは、「あなた方が言うとおり、本当に神の友人であるのなら、死を迎え入れるがよい。なぜなら、死によって、愛するものと面会するようになるだろう。それなのになぜ、それほど現世の生活に執着し、死を恐れるのだろうか?」ということです。
アル・ジュムア章の第7節は、彼らが死を恐れる理由について触れています。
「だが彼らは、以前に行ったことのために、決して死を願うことはない。神は圧制者を知っておられる」
実際、死を恐れる人々は、死後の生活を信じておらず、死を消滅と考えています。またあるいは、自分の行いが非常に圧制的なものであったことを知っているため、最後の審判に立つことを強く恐れています。彼らの死に対する恐怖の根源は、彼ら自身の悪い行いにあるのです。アル・ジュムア章の第8節には次のようにあります。
「[預言者よ、]言え、『あなた方が逃げている死は、必ずあなた方のもとにやって来るだろう。その後、あなた方は、密かなことも明らかなことも知っておられる存在へと戻される。彼はあなた方が行ったことを熟知しておられる』」
人間は、死を逃れるために様々な対策を考えます。しかし、それらが実現することはなく、いつの日か必ず、人間には死が訪れます。なぜなら、死とは、この世の最も一般的な掟だからです。神の偉大な預言者たち、神に近い天使たちは皆、死を迎え、神の清らかな性質以外、この世に残るものはありません。神の公正な裁判に立ち、行動が清算されることも、この世界の掟のひとつです。そのため、死への恐怖を抱かなくなるようにするための最良の方法は、行いを清め、罪や穢れを心から取り除くことです。なぜなら、よい行いをすれば、死を恐れることはないからです。
アル・ジュムア章の後半の節は、最大の政治的な集団礼拝である金曜礼拝に触れ、この重要なイスラムの宗教行為に関して述べています。この行為は、心の浄化と信仰の基盤の強化に大きな影響を及ぼします。アル・ジュムア章の第9節は、コーランはすべてのイスラム教徒に語りかけているとし、次のように述べています。
「信仰を寄せた人々よ、金曜礼拝[への参加]が呼びかけられたときには、神の名を唱えに急ぎなさい。取り引きをやめるがよい。これはあなた方にとってよりよいことである。もしあなた方が知っているのならば」
金曜礼拝は、何よりも集団で行われる大きな礼拝行為です。この礼拝行為は、心を清めるという効果があります。政治的、社会的にも、毎週行われる大きな集会であり、ハッジ・メッカ巡礼に次ぐイスラムの最大の集会と見なされます。アル・ジュムア章の第10節を見てみましょう。
「礼拝が終わったら、地上で散り散りになり、神の恩寵を求めなさい。神の名を多く唱えなさい。恐らくあなた方は救済されるだろう」
コーランにおける神の恩寵は、さまざまな物質的、精神的な問題を含んでいます。神の恩恵は無限のものですが、人間はそれを手に入れるために努力しなければなりません。とはいえ、商売のための努力により、神の名を唱えることを怠るべきではありません。そのためコーランは、神の名を多く唱えるよう強調しています。神の名を常に唱え続けることは、怠惰の根を絶やし、人間を救済や幸福へと導きます。
メディナの人々は、ある年、干ばつと飢饉に襲われ、物価が高騰しました。そんなある金曜日、預言者ムハンマドは金曜礼拝の説教師を務めていました。そこへ別の土地からキャラバンがやって来ました。彼らは食糧を持っていました。いつものように、キャラバンが入ったことが知らされる太鼓が鳴らされました。メディナの人々は、キャラバンがやって来たことを知ってすぐに市場へと出かけました。そのとき、集団礼拝のためにモスクに集まっていたイスラム教徒は、自分たちのニーズを満たすために市場へと急ぎました。彼らは説教を行っていた預言者を置いて行ってしまったのです。モスクに留まったのは、ほんのわずかな数の人々でした。
アル・ジュムア章の最後の節となる第11節は、金曜礼拝の際に預言者を残して市場へと去っていってしまった人々を非難し、次のように語っています。
「彼らは商売や娯楽を目にすると、散り散りになってその方へと急ぎ、あなたを立ったままで放り出す。言え、『神のもとにあるものは、娯楽や取り引きよりもよいものである。神は日々の糧を与える上で最も優れた方であられる』」