コーラン第69章アル・ハーッガ章真実の出来事
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コーラン第69章アル・ハーッガ章真実の出来事
今回は、コーラン第69章アル・ハーッガ章真実の出来事についてお話しましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アル・ハーッガ章真はメッカで下され、全部で52節あります。
アル・ハーッガ章では、主に、最後の審判とそれが起こるしるし、以前の不信心の民、特にアードの民、サムードの民、フィルアウン、ルートの民の運命、信仰を寄せた人々の運命、真理を否定する人々の苦しい運命、預言者の地位とコーランの偉大さについて述べられています。
アル・ハーッガ章の第1節から3節を見てみましょう。
「その出来事は必ず起こる。その必ず起こる出来事とは何か? 汝はその、必ず起きる出来事が何であるかを知らない」
聖典コーランは、世界の終わりに必ず起こる出来事の一部を描いています。その目的は、人間に、この世の終わりに最後の審判が行われること、それはより優れた永遠の世界であることを理解させることにあります。明らかに、最後の審判が起こる前には重要な出来事が起こります。現在の世界は崩れ落ち、新しい世界が打ち立てられます。そのとき、人間は、来世へと入るのです。
アル・ハーッガ章は、概して、最後の審判の否定や神の預言者への反抗に対処するために下されました。最後の審判が必ず起こることを信じなければ、損害を蒙り、滅亡します。ほぼ全てのコーラン解釈者が、この節の最初に出てくる「ハーッガ」という単語は、最後の審判を指していると解釈しています。また、「それは何か?」という表現は、この日の偉大さを述べるためのものであり、「汝はその、必ず起きる出来事が何かを知らない」という表現は、再び、この出来事の偉大さを強調するものであり、イスラムの預言者に対してさえ、「汝はその日について何もしらない」と言っています。
実際、最後の審判という出来事を理解することは、現世に生きる人々にとっては不可能でしょう。母親の胎内にいる胎児が、現世の問題について理解できないのと同じです。
アル・ハーッガ章は、最後の審判に触れた後、最後の審判の日や責め苦を否定していた民が、どのような運命をたどったかについて述べています。
「だが、サムードの民は、反抗による責め苦のために滅亡した」
サムードの民は、ヒジャーズとシャームの間の山岳地帯で暮らしていました。預言者サーレハがサムードの民の間に遣わされましたが、彼らが信仰を寄せることはありませんでした。サムードの民は預言者サーレハに対し、「もし本当のことを言っているのなら、私たちに約束した責め苦をもたらしてみてほしい」と言いました。そのとき、サムードの民の家や宮殿を大きな稲妻が襲い、一瞬のうちにすべてが崩れ落ち、人々の魂のない肉体が地面に倒れました。
アードの民も、アラビア半島、あるいはイエメンに暮らしていました。彼らは身長が非常に高く、頑強な肉体と繁栄した緑豊かな土地を持っていました。彼らの預言者はフードでした。アードの民が反抗を極めたため、神は痛ましい責め苦によって彼らを消滅させました。神は、8日間に渡って、凍りつくような強い風を吹かせました。コーランは、「もしそこにいたら、その民が皆、枯れ果てたナツメヤシの木のように地面に倒れ、滅びたのを見ただろう」としています。
アル・ハーッガ章の第8節は、「彼らの中で生き残った者がいるだろうか?」としています。現在、アードの民の痕跡もなければ、彼らの壮麗な建物や緑豊かな畑、栄えた町は、その廃墟が残るばかりです。
アル・ハーッガ章は、アードとサムードの民の運命について述べた後、別の民のことも明らかにし、彼らの人生から教訓を得るようにとして、第9節で次のように語っています。
「フィルアウンと彼以前にいた人々、[ルートの民の]崩れ落ちた町[の人々]は皆、過ちを犯した」
フィルアウンと、彼以前にいた圧制者たち、そうした圧制者に従って逸脱していた町の人々は、圧制、多神教信仰、不信心、堕落といった過ちに陥っていました。
フィルアウンの仲間たちは、預言者ムーサーやハールーンに反対し、ルートの民は、預言者ルートに反抗しました。また別の民も、それぞれの預言者の命に従わなかったため、それぞれの民に責め苦が下りました。フィルアウンの仲間たちは、ナイル川に飲み込まれ、ルートの民は大きな地震に襲われ、その後、泥の粒の嵐によって滅亡しました。
アル・ハーッガ章の第11節は、ヌーフの民と、彼らの痛ましい責め苦について簡単に触れ、次のように語っています。「我々は水が溢れ出し、荒れ狂ったとき、あなた方を船に乗せた。波は非常に高く、空を黒い雲が覆い、天から洪水が起こったかのような雨が降り、大地からは水が湧き出た。これらが合わさり、反抗的な民の家や宮殿、庭園や畑など、すべてのものを飲み込んだ。救われた唯一のグループは、預言者ヌーフと共に船に乗った敬虔な人々だった」
アル・ハーッガ章の第12節は、この責め苦の目的に触れ、次のように語っています。「それはあなた方に思い起こさせ、聞く耳を持ってそれを理解するようにするための手段である。我々の目的は、人間を教育し、完成へと導くことである」
アル・ハーッガ章は続けて、最後の審判の兆しに触れています。コーランによれば、この世界の終わりと別の世界の始まりは、突然起こり、大きな音を伴います。それは、「ラッパの音」と表現されています。
アル・ハーッガ章の第13節から15節を見てみましょう。
「それで、ラッパが一度吹かれるとき、大地や山が持ち上がり、突然、崩れ落ちて粉々になったとき。その日、大きな出来事が起こる」
最後の審判が起こるとき、大地や山が崩れて粉々になるだけでなく、天も引き裂かれます。この恐ろしい出来事は天体にも及びます。天体は引き裂けて散らばります。別の言い方をすれば、現在の天と大地は破壊され、新しい世界が打ち立てられます。その世界は、今の世界よりも優れた完全なものです。
アル・ハーッガ章の第19節から先は、最後の審判での2つのグループの運命に触れています。
「彼らの行いの記録が右手に与えられ、その行いの記録が左手に与えられる者たち」
コーランの節は、その日、誰でもその人のそれまでの行いや考え方を持って、神の御前に立つとしています。
アル・ハーッガ章の第19節と20節を見てみましょう。
「そこで、その行いの記録を右手に与えられる者は、私の行いの記録を読みなさい。私は[復活が真実であり、]自分の行いの清算に直面することを確信していた」
この清算を信じることの意味は、人間の中に敬虔な精神や責任感が生まれることであり、それは人間の教育に重要な役割を果たしています。いずれにせよ、行いの記録を右手に与えられる人は、好ましい人生を送り、その実に手が届く楽園に入るのです。
アル・ハーッガ章の第25節から27節を見てみましょう。
「だが、その行いの記録を左手に与えられる者は、こう言う。『ああ、行いの記録が私に与えられていなかったらよかったのに。私の清算がどうなるのかを知らなかった。死によって終わっていたらよかったのに』」
そう、この大きな審判では、醜い行いが明らかにされたとき、人間は後悔のため息をつき、過去との関係を断ち切りたいと願います。そして、神に死を求め、そのような大きな不名誉から救ってほしいと頼むのです。このような状態で、その人は後悔に満ちた告白を行います。
「財産も富も何の役にも立たず、私は力を失った」
そのとき、この人物は富や財産が何の役にも立たず、力も失ったことを悟ります。そして、地獄の役人から手足を鎖でつながれ、地獄へと突き落とされます。
アル・ハーッガ章は、コーランの偉大さと、コーランで述べられていることの正しさを強調し、そこには、人間の言葉は全く混ざっていないとしています。コーランは、神の最後の書物として、最後の預言者に下され、人類のすべての世代のための導きの光となっています。コーランは、偉大なる預言者の使命を証明するものです。また、すべての人への根拠、明証であり、その内容は、神の無限の知識を物語っています。そのため、コーランは、多神教徒や預言者に反対する人々への誹謗中傷を否定しています。反対者たちは、時に預言者を詩人、あるいは占い師と呼んだりしました。しかし、詩は通常、空想から生まれるもので、感情や興奮を示しています。そのため、多くの浮き沈みを伴うものですが、コーランは魅力や美しさと同時に、論理も併せ持っているのです。