6月 23, 2018 23:23 Asia/Tokyo
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今回は、コーラン第89章アル・ファジュル章暁についてお話ししましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アル・ファジュル章は、コーランの多くの章と同じようにメッカで下され、吉報や忠告を伴った短い節で構成されています。

 

ファジュル章の前半は、数多くの誓いが出てきます。これは他に例がなく、圧制者に神の責め苦を警告するための前段です。その後には、アードやサムードの民、フィルアウンといった以前の反抗的な民と神の彼らに対する責め苦、人間への試練、人間の善い行いへの怠慢、復活、罪を犯した人や不信心者の運命、安心した敬虔な人々の大きな報奨といった事柄が述べられています。

 

ファジュル・暁への誓い、10の夜と奇数と偶数への誓いが、ファジュル章の最初に出てくる誓いとなっています。ファジュル、夜明けは、神の偉大さ、光の支配の始まり、闇の終わりのしるしです。生き物が活動を始め、眠りや静けさが終わります。ファジュルは夜の闇を切り裂き、地平線から光の源を表し、世界に光を照らし、生活を変化させます。このことから、無明時代の闇におけるイスラムの輝きは、夜明けに相当します。

 

この他、夜明けの輝きに相当するのは、圧制の暗闇の中に世界が沈んだ際、救世主であるシーア派12代目イマーム、マハディが現れることです。また、シーア派3代目イマーム、ホサインによる蜂起や、歴史の中で不信心や無知、圧制に対して行われてきた真のすべての革命もまた、夜明けと見なされます。罪を犯した人々の暗い心に現れ、罪の悔悟へと促す最初の火花もまた、ファジュル・夜明けと見なされます。

 

ファジュル章の第15節と16節は、神の報奨と懲罰の基準となり、人間の人生において最も重要な問題である試練について述べています。これらの節によれば、神が人間に試練を与え、人間を尊び、恩恵を注ぐとき、人間は高慢になり、「神は私を尊重してくださった」と言います。しかし、試練のために日々の糧が与えられなくなり、失望すると、「神は私に屈辱を与えた」と言います。その人は、神の試練が、人間の成長と育成のための秘密であることを知りません。

 

神は英知によって、それぞれのグループの人間を、時には恩恵によって、また時にはさまざまな災難によって試します。しかし重要なのは、恩恵を享受したり、それを奪われたりすることが、神の御前で高い地位を有していることや、その反対を意味するわけではないということです。基準となるのは、常にいつでも、信仰と敬虔さなのです。

 

ファジュル章は続けて、第17節と18節で、神から遠ざかることの理由に注目し、次のように語っています。

 

「あなた方が考えるようなものではない。あなた方は孤児を大切にせず、貧者を養うことを互いに呼びかけあわない」

 

明らかに、孤児に関しては、空腹だけが問題ではありません。それ以上に重要なのは、彼らの愛情不足を補うことです。孤児を大切にし、両親がいないことに苦しまないようにするのです。そのため、孤児に愛情をかけることは、信仰心を強化し、救済を得ることにつながります。

 

ファジュル章は終わりに、嵐のような大きな出来事があっても、完全な落ち着きを保つ敬虔な人々について触れています。その中で、彼らに愛情にあふれた言葉で語りかけ、第27節から30節で次のように語っています。

 

「安心した人よ、安らぎを得た魂よ! あなたの神へと戻りなさい。あなたも神に満足し、また神もあなたに満足している。私の僕の中に入りなさい。天国の中に入りなさい」

 

この興味深い表現は、信仰によって安らぎの段階に達した人々への神の直接の導きです。その導きは、神の満足を得たものであり、それに続き、神もその人に信仰という冠と誇り高い服従という衣を与えます。このような人は、神の約束を信じ、さまざまな災難や嵐のような出来事、またそれ以上の出来事である最後の審判の恐怖と不安の中でも落ち着いています。神が私たちに安らぎを与え、このような言葉にふさわしい人間となれることに希望を抱いているのです。

 

 

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