6月 23, 2018 23:49 Asia/Tokyo
  • コーラン第91章アッ・シャムス章太陽
    コーラン第91章アッ・シャムス章太陽

今回は、コーラン第91章アッ・シャムス章太陽を見ていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

アッ・シャムス章はメッカで下され、全部で15節あります。この章で述べられているのは、大地、天、天体、様々な時代、人間の魂の創造とその本能的な導き、心の浄化と自己形成、サムードの民と彼らの運命といった事柄です。

 

「人間の魂に誓って。また、それを創造し、秩序を与えた方に誓って」

 

ここで言う人間の魂が指しているのは、肉体と精神の2つを持つ人間の性質のことであり、それは神秘に溢れています。コーラン解釈者によれば、心の浄化によって救済されると述べるためにこれほど多くの誓いが行われているのは、神が人間に対し、すべての準備はなされていること、太陽や月の光によって人間の生活の場面を明るく照らし、夜と昼をめぐらせることで、人間が活動したり、休息したりするための土台が整っていることを理解させるためです。また神は、大地を広げ、天を掲げ、善と悪の理解を人間の精神に吹き込み、人間が自分の意志によって心を浄化する道を歩むことができるようにしています。

 

アッ・シャムス章の第8節は、神が判断力や目覚めた良心、理性を人間に与え、本能と理性によって、敬虔さと罪を理解できるようにしたとしています。人間の創造が完成したとき、神はすべきこととしてはならないことを人間に教えました。それにより人間は、創造の時点では汚い泥に神の魂が吹き込まれたものであったものが、罪と敬虔さを知る存在となりました。その結果、人間は、天使より優れた存在となることも、動物よりも下等な存在になることもでき、どちらの道を選ぶかは、その人の意志次第となります。

 

コーランでは、救済を得られるのは、自分の魂、本質を鍛えて成長させ、不信心や反抗、罪や悪魔のような性質といった穢れを取り除いた人だとされています。言い換えれば、その人の本質は、敬虔さ逸脱を見分ける鏡なのです。誰でもこの鏡を清らかに保つ人は罪を離れ、救済にいたります。一方で、本質の鏡を罪という埃の下に埋める人は、救済を得られず、損害を蒙ります。コーランは次のように語っています。「誰でも自分の本質を清らかにする者は救済される」

 

アッ・シャムス章の節は、ひとつの例として、反抗的であったサムードの民の運命を述べています。彼らは本質を清めようとせず、彼らの預言者であったサーレハを否定しました。このような穢れた魂は社会に影響を及ぼし、ひとつの社会を逸脱させます。このような状況の中で、決定の中心は反抗や欲望への追従におかれ、真理の明らかなしるしとその真の支持者が、欲望から下される決定を阻止することはできませんでした。

 

アッ・シャムス章では、サムードの民と彼らの結末に関する物語が、このような人間の堕落の例として挙げられています。彼らは、至高なる神の明らかなしるし、つまり預言者サーレハのラクダの奇跡を目にした後、それを自分たちの世俗的な利益に反するものと見なしました。そしてそのために、ラクダに嫌がらせをしないようにという神の預言者サーレハの忠告にもかかわらず、ラクダを殺してしまったのです。実際、サムードの民は、反抗的な心によって神の明らかなしるしやメッセージを偽りと見なしました。そのため、神もまた、彼らに、その罪にふさわしい責め苦を下したのです。サムードの民の物語は、より包括的な形で、神のあきらかなしるしを受け取った人々すべてに対し、魂の正しい鍛錬と浄化を行わなかったために、神の明らかなしるしを否定した、サムードの民のような結末に至ることがないよう、警告しています。

 

 

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