6月 26, 2018 20:03 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回は、コーラン第80章、アバス章「眉をひそめて」をみていくことにいたしましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき神の御名において。

 

コーラン第80章アバス章はメッカで下され、42節あります。この章の主な内容は、真理を探究する盲目の男性に対する不適切な対応による厳しい叱責、コーランの偉大さとその教えの真実、人間の不信心さ神の恩恵への感謝の欠如、人間や動物の食物における神の恩恵、そして最後の審判、及びこの大いなる日おける、敬虔な人間と不信心者の運命などとなっています。ちなみに、アバス章という名称は、この章の最初の節に由来するものです。

 

アラブ民族の1つであるクライシュ族の族長たちの一部が、イスラムの預言者ムハンマドの下で、イスラムへのいざないを受けていました。預言者ムハンマドは、自分の話の内容が彼らの心に響くことを期待していました。この集まりの場に、アブドッラーという貧しい盲目の男が入ってきて、預言者に対し、自分のためにコーランの一部の節を読み、その内容を教えて欲しいと頼みました。彼は繰り返しせがみ、引き下がりませんでした。アブドッラーが預言者の話を何度もさえぎったため、預言者は不快感をあらわにし、この男から顔を背け、それまで行っていたイスラムへのいざないを続けました。こうした状態において、アバス章の最初の数節が下され、神が預言者ムハンマドを責めたのです。

 

この物語が示しているのは、イスラムが特に抑圧された人々をはじめとする真理を追求する人々に、特別な敬意を払っており、人間はその禁欲さ、信仰心や美徳により尊敬されることです。逆に、イスラムは、神の多大な恩恵にあずかり、豊かな富を有していることに驕り高ぶり、有頂天になっている人々に対し、非常に厳しい態度を示しています。

 

ここで、アバス章第17節をみてみましょう。

 

”[不信心な]人間に災いあれ。何と彼は恩知らずなことか!”

 

コーランのこの節は、神の恩恵を感じない恩知らずという特徴を有する人間に対する神の怒りを物語っています。そして、神への反逆や神の恩を感じないという行為の大半は、不信心や傲慢さに端を発していることから、コーランはこうした傲慢さを打ち砕くため、次のように述べています。

 

「神は、何から人間をお造りになったか?神は、人間をわずかな精液からお造りになったではないか。然るに、人間どもがこれほど反逆し、神の恩を忘れるとは、一体何のためか?」

 

 

さらに、アバス章第24節は、人間に対し自分が食べるものに注目するよう促し、次のように述べています。

 

”人間は、自分の食物やそれが造られることについて考えるべきである” 

 

そして、その続きでは神が人間や四足動物に与えた各種の食物について語るとともに、人間に感謝の心を起こさせ、創造主なる神とその恩恵について認識するよう促しています。人間にとって、食物は最高の物質であり、体内で化学変化によって自分の存在を形成する組織の一部となり、人間の肉体と精神に影響を与えます。このため、コーランは人間に植物や樹木から得られる物質や食物に注目させているのです。

 

言うまでもなく、食物に目を向けるということは、食物の見た目のよさを堪能することではなく、こうした植物の成分、それが人間の体内で発揮する驚異的な効果について考えることを意味します。さらに、人間はそれらの食物やその材料がどのようにして創造され、はたまたそれらが神の定める合法なものであるか否かについて考える必要があります。

 

一部の伝承は、食物を人間の精神の滋養となる学術、知識を食物にたとえ、食物とは何か、そして誰からもらったものか、また人間の精神的な滋養である学問や知識の基本的な根源はどこにあるのかを見極める必要があるとしています。それは、そうすることにより、その知識の源が汚染されていないように気をつけ、人間の精神までをも蝕み、破壊するような食物をとらないようにするためなのです。

 

アバス章の節の一部においても、最後の審判の日について述べられています。アバス章の第34節以降には、最後の審判の日は、人間が自分の兄弟や父親や母親、子供たちからも逃げ、自分の近親者をも忘れ、自分が持つあらゆる欲望やこだわりを捨てるほど恐るべき日であるとされています。この日には、全ての人々が自分のことだけで精一杯の状態にあります。

 

イスラムの伝承には、次のように述べられています。あるとき、預言者ムハンマドの一門の一部が預言者に対し、人間は最後の審判の日に自分の親しい友人のことを思い出すだろうかと尋ねました。これに対し、預言者は次のように答えました。

”人間が、誰のことも思い出せなくなるような状態は3つある。1つは、自分の行動の結果による罪が重いか軽いかを計られるときである。次に、その下に地獄があるセラートと呼ばれる橋を渡るときである。この橋を渡りきれるのは言動の良かった人であり、そうでなかった人は渡れない。3番目に、現世での自分の行いの記録書が、自分の右手、或いは左手のどちらかに渡されるかを目にするときである。このときに、崇高なる神は次のように述べられる。

「その日、全ての人々が、自分のことで頭が一杯になっている。」