コーラン第107章アル・マーウーン章必需品
今回は、コーラン第107章アル・マーウーン章必需品についてお話しましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
アル・マーウーン章は、コーランの終盤にある節の数が少ない章のひとつです。この章には他にも、宗教や否定といった名前があります。この章はメッカで下され、全部で7節です。アル・マーウーン章は、最後の審判を否定する人たちの性質や行動、悪い行いをする人たちの一部の特徴について述べています。
イスラムが現れた後、イスラム教徒の数が次第に増加するにつれ、新しい状況が生まれ、その状況はいくつかの害悪を伴うものでした。例えば、一部の人々は、神と預言者のことを証言し、イスラムを表面敵に主張すれば信仰が維持され、現世でも来世でも幸福を得ることができると信じていました。しかし、イスラムは、さまざまな原則やすべきこと、してはならないことを含むものであり、イスラム教徒は成長を遂げるために、孤児や貧しい人への配慮、清らかで純粋な礼拝、善い行いといった事柄を実践する必要があるのです。
このような状況の中、アル・マーウーン章が下され、宗教を否定する人々のしるしが述べられました。言い換えれば、アル・マーウーン章は、誰が持っていたとしても、その人の卑しさや不信心を示すことになる性質を述べたものだと言えるでしょう。
注目に値するのは、コーランが、これらすべての悪い行いや性質を、宗教や最後の審判の日を否定することの結果だとしていることです。孤児や空腹にあえぐ人をないがしろにすること、礼拝を怠けること、偽善、人々に協力しないこと、日常の取るに足りない道具でさえも彼らに与えないこと、これらがこの章で述べられている事柄となっています。これにより、けちで利己的で偽善的な人々の状況が映し出され、彼らは創造主である神とも、また被創造物である人間ともつながりを持っていません。彼らは、信仰心も、責任感も持っていません。そして、神の報奨について考えることも、神の責め苦を恐れることもないのです。
アル・マーウーン章の美しい朗誦をお聞きください。
「汝は審判の日を[常に]否定する人を見たか? 彼は孤児を暴力によって追い払う者であり、貧しい人に食事を与えることを[他人に]勧めない者である」
ただいまお聞きいただいたのは、アル・マーウーン章の第1節から3節です。一部の人々は、これらの節は、クライシュ族の長の一人であるアブーソフィヤーンについて下されたものだとしています。アブーソフィヤーンのもとに、ある日孤児がやって来て、彼に恵みを求めましたが、彼は杖でその孤児を叩き、追い払いました。
アル・マーウーン章の第4節と5節は、礼拝者たちへの警告によって始まっています。
「神と正しい関係を持たない礼拝者たちに災いあれ。彼らは礼拝という義務の原則を怠り、それに価値を置くこともなければ、その時間を重視することも、その段階や作法を守ることもない」
最も価値のある崇拝とは、礼拝を行い、神と純粋かつ愛情に溢れた関係を築くことです。精神性や純粋な心に溢れた礼拝、意志を伴った正しい崇拝は、個人や家族の生活、社会の関係や行動において、教育面で建設的な役割を果たします。コーランは、預言者に語りかける節の中で、この1日の礼拝について次のように語っています。
「また、礼拝を行いなさい。礼拝は[人間を]醜く好ましくない行いから遠ざける。また、神を思い起こすことは、より大きく優れたことである。神はあなた方が行うことを知っておられる」
人間の教育における礼拝の役割と、それが人間の生活に及ぼす影響は非常に重要であり、復活の日には何よりもまず、人間の礼拝が評価されます。礼拝が受け入れられれば、他の崇拝行為も受け入れられます。しかし、礼拝が受け入れられなければ、残りの行為も受け入れられません。そのため、礼拝を怠ることは、何よりもまず、自分自身にマイナスの影響を与えることであり、アル・マーウーン章ではそのことが警告されています。そのような人は、礼拝という義務の実践に無関心である上に偽善者であり、人々の目がある所でだけ、礼拝を行います。
聖典コーランは、その教えの中で、信仰と行動は共に関係するものだとしています。信仰と行動の関係は、木の葉と根のような関係です。植物の根は土から栄養を吸収し、葉に与えます。葉もまた、太陽の光を吸収して根に伝えます。信仰と行動の関係も、それと同じです。信仰は木の根のように人間の行動を促し、行動もまた、木の葉のように信仰を強化するのです。
言い換えれば、イスラムは、行動の根本には目的があるとしています。それも神のための純粋な目的です。また、ある行いの利益は、その目的に応じたものになっています。神のために戦う人への神の報奨は大きなものですが、現世の戦利品のために戦う人の取り分は、現世の利益に限られるでしょう。
偽善になれた社会は、よい性質や美徳、神から遠ざかるだけでなく、その人のすべての社会計画が中身のないものとなり、形だけが残ります。そのため、アル・マーウーン章第6節は、彼らの最悪の行いのひとつは、偽善だとしているのです。
アル・マーウーン章の最後の節は、他人の慈善を否定する人々について語っています。シーア派6代目イマーム、サーデグは、マーウーンという言葉の解釈について、次のように語っています。「マーウーンとは、人間が他人に貸し与える金や生活の道具である。あるいは、人間が行う慈善行為や援助のことである」
言い換えれば、こうした人は他人の生活必需品を奪う人です。そのこと自体、最後の審判を信じず、けちであることの象徴です。イスラムの預言者ムハンマドは、こんなに小さなものでさえ他人に与えることをためらうような人は、最後の審判で神から善を奪われ、放り出されることになるとし、神から放り出された人は、何と悪い状態になることかとしています。