光の彼方への旅立ち、ルクマーン章(1)
コーラン 第31章ルクマーン章 ログマーン 第1節~第6節
慈悲深く、慈愛あまねき、アッラーの御名において
第1節
「アリフ、ラーム、ミーム。」(31:1)
(1)الم
第2節
「これは英知に溢れた書物の節であり」(31:2)
(2)تِلْكَ آيَاتُ الْكِتَابِ الْحَكِيمِ
第3節
「善を行う人たちへの慈悲と導き[の源]である」(31:3)
(3)هُدًى وَرَحْمَةً لِلْمُحْسِنِينَ
聖典コーランには、アラビア語のアルファベットで始まる章が29章あり、ルクマーン章も、そうした章のうちのひとつです。アルファベットは、それによってまとめられたコーランの偉大さを示しており、同時に、誰にも、コーランと同じような書物をもたらすことはできないという、神の奇跡を示しています。この書物は、英知に溢れた節から成っています。なぜなら、英知に溢れる神から下されたものであり、十分な豊かさと確かさを備えているからです。そこにはいかなる無意味な言葉も存在せず、逸脱とは無縁です。真理のみを語り、真理の道のみに導くものです。
コーランは、全ての人間を導くために下されましたが、その導きの恩恵を受けることができるのは、清らかで善を行う人々です。罪に穢れたり、悪を行ったりする人は、その節を聞いたり読んだりする用意がないか、また聞いたり読んだりしても、魂が穢れているために真理を突き返し、それに背を向けるのです。
第1節から3節の教え
- 人々を導くには、英知に基づき、確かな根拠を伴っていなければなりません。そのため、コーランは英知に溢れる書物とされています。
- 人々を導くには、彼らに最高の形で影響を及ぼすために、慈悲と愛情を伴う必要があります。
第4節
「彼らは礼拝を行い、喜捨を施し、また来世を信じる。」(31:4)
الَّذِينَ يُقِيمُونَ الصَّلَاةَ وَيُؤْتُونَ الزَّكَاةَ وَهُمْ بِالْآخِرَةِ هُمْ يُوقِنُونَ
第5節
「彼らは神からの導きのもとにあり、救われた人々である」(31:5)
(5)أُولَئِكَ عَلَى هُدًى مِنْ رَبِّهِمْ وَأُولَئِكَ هُمُ الْمُفْلِحُونَ
これらの節はまず、前の節にある“善を行う人々”という単語について説明しています。善行には、行動と思想の2つの側面があります。行動面には礼拝と喜捨があり、思想面には、来世への信仰があります。
原則的に、宗教において、神への崇拝は、神の創造物への配慮と切り離されてはおらず、この2つは互いに必要なものです。残念ながら、現代の世界においては、礼拝を行い、モスクに通い、神に祈祷を捧げながら、社会の恵まれない人にはほとんど注目せず、日常の礼拝を行えば十分だと考える人が数多く存在します。それに対し、恵まれない人の問題を解決しようと努めるものの、宗教的な指示や礼拝にはほとんど注目しない人がいます。この節は次のように語っています。「神の特別な導きにさずかり、幸福と救済を得るのは、他人に善を行い、喜捨を施すと共に、神に服従して礼拝にいそしみ、その行いにおいて、来世を考慮する人々である」
第4節と5節の教え
- イスラムでは、礼拝と喜捨は互いに切り離せないものです。信仰のある人間は、この2つを常に実践しなければなりません。
- 真の善行者とは、人々のことを考え、彼らの問題を解決しようと努めると共に、自分の精神的な成長のことも考える人のことであって、どちらかを他方の犠牲にする人は、真の善行者とは言えません。
- 救済は、神と最後の審判への信仰、礼拝や喜捨といった宗教的な義務の実践によって得られます。行動を伴わない礼拝、また礼拝を伴わない行動は、どちらも役に立ちません。
第6節
「一部の人々は、無意味な言葉を求め、いかなる知識もないというのに、[他人を]神の道から迷わせ、それを嘲笑する。彼らには屈辱的な責め苦がある」(31:6)
(6)وَمِنَ النَّاسِ مَنْ يَشْتَرِي لَهْوَ الْحَدِيثِ لِيُضِلَّ عَنْ سَبِيلِ اللَّهِ بِغَيْرِ عِلْمٍ وَيَتَّخِذَهَا هُزُوًا أُولَئِكَ لَهُمْ عَذَابٌ مُهِينٌ
この節は、“偽りの言葉”という、人間を迷わせる最大の要素に触れています。歴史書には、アラブの商人がイランなどの地域を訪れ、ロスタムやエスファンディヤールといった英雄の伝説や皇帝たちの運命について耳にしたとあります。彼らはメッカに戻った後、人々を集めてこう言いました。「ムハンマドはアードやサムードの物語を語っているが、私たちは、もっと面白い話を聞かせてさしあげよう」
不信心者たちはこうして、人々を預言者の周囲から遠ざけ、彼らの耳にコーランの節が届かないようにしました。一部の女性たちも、愛の歌を歌い、人々が預言者に注目し、コーランの美しい節に耳を傾けるのを妨げていました。また、預言者や神の言葉を嘲笑し、それを価値のないものだとしていたのでしょう。
この節は、次のように語っています。「あらゆる手段によって、人々を神の道から遠ざけ、いかなる根拠や論理も提示せずに、神の節を価値のないものと呼んだり、嘲笑したりする人々には、厳しい懲罰が下るだろう。彼らには、現世でも来世でも屈辱がつきまとう
第6節の教え
- 人をひきつける言葉は、人間を真理の道から遠ざけ、その人を迷わせるものであり、宗教的に否定されています。
- 人々、特に若者たちの迷いの原因のひとつは、そのリズムや詩が道徳に反し、神のことを忘れて現世の欲望に執着することになるような音楽を聞くことです。
- 敵は、イスラムの信条や思想と闘うため、記述や言葉という文化的な手段を大々的に利用しています。そしてそれを、映画、演劇、音楽など、さまざまな芸術の形で社会に広めています。