4月 04, 2016 21:34 Asia/Tokyo
  • メソポタミア、チグリス・ユーフラテス川の一帯における衣服の歴史

今回は、メソポタミア、チグリス・ユーフラテス川の一帯における衣服の歴史についてみていくことにいたしましょう。

これまで、イランに布地が生まれた歴史を明らかにしようと、多くの研究が行われてきました。そうやらその歴史は、文明の開始と同じ時期にあたるようです。原始時代の人間は、気候の変化から身を守るための手段として、動物の皮を使用していたと推測されています。

11世紀のイランの偉大な英雄叙事詩、フェルドウスィーをはじめとする、東洋と西洋の多くの歴史学者は、キユーマルスが、動物の皮を衣服として利用した最初の人物だと考えています。伝説によれば、キユーマルスは、ピーシュダーディー朝の王で、大抵、ヒョウの皮を身につけていました。しかし、フェルドウスィーによれば、キユーマルスの息子のスィヤーマクが戦場で殺されたとき、全ての戦士たちは、空色の服を着ていました。一部の歴史家は、ピーシュダーディー朝の別の王であるフーシャングが、動物の皮を初めて衣服として利用した人物だとしています。フェルドウスィーもまた、一部の詩の中で、そのような仮説を認めていますが、それでもなお、彼の考えによれば、イランに布が生まれたのは、フーシャングの後継者であったタフームーレスの貢献によりました。当時、人々は、どのように羊やヤギの毛から服を作ればよいのかを学んでいました。

ピーシュダーディー朝の王たちに関する記述は、この時代が紀元前数千年期にさかのぼることを物語っています。この時代は伝説上の時代であり、それを肯定したり、否定したりするいかなる資料も存在しません。しかし実際、イラン高原で行われた数々の調査から、イランで布が生まれ、衣服が発展しただいたいの歴史を明らかにすることができるでしょう。

イラン北部・ベフシャフル近郊のキャマルバンド洞窟で行われた考古学調査により、羊毛の織物に関する古い道具が見つかりました。人間が羊毛から糸をつむぐ道具を作っていたとすれば、それは、紡績の技術を習得していたことを物語っています。これは、紀元前6000年ごろのものとされています。

イラン中部カーシャーン近くのシアルクでは、紀元前4200年のものとされる骨のナイフのセットが見つかっています。このナイフは、挨拶をしているかのように、少し前かがみになり、両腕を胸の前に置いている人の形になってます。この人物は、膝のところまで布をまとっており、足の部分は歯の部分につながっていたようですが、その部分はなくなっています。このナイフのセットは、紀元前4000年ごろから、イラン高原では動物の皮のほかにも衣服が存在したことを物語っています。フランスの考古学者ロマン・ギルシュマンは、「原始からイスラムまでのイラン」という本の中で、このナイフについて次のように記しています。「これは、これまで発見されたものの中でも最も美しい品であり、新石器時代の人間を示している。これは中近東の人間の姿を描いたものだ」

イラン西部サレポレザハーブの岩壁に刻まれたレリーフは、先史時代の衣服に関する研究をわずかに進展させました。このレリーフは、長いひげがあり、帽子のようなものをかぶり、真珠の首飾りをかけ、膝までの布をまとった男性の姿を描いています。この男性は弓矢を持っており、裸の別の男性を足で踏みつけています。右手には、鈎針のようなものを持っていて、彼の前には、とがった長い帽子をかぶり、丈の長いシャツを着た女性がいます。この女性は、右手には輪を持ち、左手には、後ろ手に縛られた2人の男性をつないだ鎖をもっています。

この頃から、動物の皮ではなく、布が存在していました。ここでは、衣服は一枚の布ではなく、その人の体型に合わせて裁断され、美しく見せるものになっていました。このような衣服や縫製の変化から、イランに布地が生まれたのは、紀元前3000年ごろだと結論付けることができるでしょう。

イラン南西部シューシュで行われた考古学調査は、古代イランにおける繊維産業の存在を物語っています。現在、パリのルーブル美術館にあり、シューシュで発見されたナピル・アスのブロンズ像は、紀元前2000年期半ばのものです。このブロンズ像は、1メートル29センチの高さがあり、重さは1750キロです。この重さは、像の中にある鉛によるものです。この像の衣服は質素なもので、袖の短いシャツをまとい、腰にはショールを巻いています。実際、上半身のシャツはタイトなデザインですが、ショールはプリーツになっていて、飾りがついています。

イランの研究者の一人は、「イランの印章の歴史」という本の中で、興味深い点を指摘しています。

「印章の模様は、紀元前4000年期に、シューシュの女性たちが、壷の製造や紡績、織物の技術を習得していたことを物語っている。彼女たちの衣服は、羊毛、動物の皮、または布でできていて、そこにはさまざまな形の模様や縁取りがある。初めの頃の印章では、神々が身にまとう衣服には美しく多様な模様があり、帽子にもさまざまな模様が描かれている。一般の人々は、縁なしの短い帽子や長い帽子を使っていたが、神々の帽子は、ターバンのような角のある帽子だった」

このように、発見された品々や資料から、アジア南西部、チグリス・ユーフラテス川の流域を支配していた全ての民族は、この地域の衣服の変遷に何らかの形で影響を及ぼしてきたことが分かります。イラン高原に住むさまざまな民族は、支配民族の文化や文明の影響を受けたり、彼らにも自分たちの文化や文明の影響を及ぼしたりしていました。

後にイラン高原に移住してきたアーリア人は、これらの民族と出会ったときにさまざまな問題に直面したものの、徐々に彼らの文明や文化の恩恵を受けるようになりました。その後、パールス人が、自分たちの文化や文明を広げると共に、イラン高原南部の人々の文化や文明を取り入れ、華やかな歴史的遺物を残しました。そのひとつが、アケメネス朝の衣服だったのです。