コーラン第20章アル・アンビヤー章預言者(1)
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聖典コーラン
今回からは、コーランのアル・アンビヤー章、預言者についてお話しします。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
今回からは、コーランのアル・アンビヤー章、預言者についてお話しします。この章はコーランの21番目の章で、全部で112節あります。
アル・アンビヤー章では、神の預言者16人の名前が、彼らの状態や言及のみの形で述べられています。ここには、ムーサー、ハールーン、イブラヒーム、ルート、イスハーク、ヤアクーブ、ヌーフ、ダーヴード、ソレイマーン、アイユーブ、イスマイール、イドリース、ユーヌス、ザカリヤー、ヤヒヤーの名前が出てきます。また、イスラムの預言者ムハンマドとイーサー・マスィーは、名前こそ出てきませんが、この章で語られています。
アル・アンビヤー章は、大部分が、預言者たちのたどった運命にあてられています。彼らは困難に直面した際、神の恩恵を頼りにし、神がこの困難を解決し、自分たちを救ってくれると考えていました。イブラヒームがナムルードの火の中に巻き込まれた際、ユーヌスが魚の腹の中に飲み込まれた際、ザカリヤーが年老いてから子供を授かった際などがそれにあたります。

アル・アンビヤー章は、人々に対する力強い警告によって始まっています。それは人々を目覚めさせ、衝撃を与えるものです。
「人々の清算が近づいている。だが彼らは、それを知らずに背を向けている。彼らは主から新しい忠告がくるたびに、それを聞きながら、遊興にふけっていた」
この後の節は、人々の不注意や抗いのしるしに触れ、次のように語っています。「コーランの節が下され、預言者がそれを読むたびに、彼らは聞いていながら、まるで聞いていないかのようであり、それを冗談に取る。彼らは世界の創造主から下された啓蒙的な節を真剣に捉えず、その言葉が彼らの運命に直接、影響を与えることについて考えたりもしない」
コーランは、真理に対するこのような態度の根源は、現世に執着し、神を忘れた人々の心にあるとしています。そのような人々は、真理を受け入れないだけでなく、欺瞞の言葉によって、他の人々が預言者の導きを受け入れるのを、密かに妨げようとします。そのため、預言者ムハンマドに対してあらゆる誹謗中傷を浴びせます。預言者を魔術師と呼び、その言葉の魔術によって、人々を自分の方へとひきつけるのです。

メッカの多神教徒や預言者に反対する人々は、預言者のイメージを壊し、コーランの節を人々から遠ざけるため、様々な口実を設けました。時に、預言者は普通の人間であり、その言葉の影響力は魔術以外の何ものでないと言ったりしました。彼らは、預言者が啓示としてもたらしたものは、彼が真理だと思い込んでいる夢想に過ぎないと言っていました。あるいは、「彼は嘘つきであり、その言葉を神に関連づけているだけだ」と言ったり、「彼は詩人であり、その言葉は彼の詩的な空想だ」と主張したりもしました。彼らは、もし預言者が本当に神の使徒であるのなら、以前の預言者が奇跡をもたらしたように、彼も奇跡をもたらすべきだと言いました。このような預言者に対する誹謗中傷は、彼らの目的が真理を突き止めることではなく、口実を探し、可能な形でライバルを追い払うことにあったことを示しています。
アル・アンビヤー章は続けて、次のように語っています。
「歴史の中で、全ての預言者たちは人類から選ばれた。神はいかなるときも、天使を預言者として遣わさなかった」
アル・アンビヤー章の第7節には次のようにあります。
「我々は汝以前にも、男性を[預言者として]遣わし、彼らに啓示を授けた。そこで[言え、]『もしあなた方自身が知らないのなら、天の書を知っている者に尋ねるがよい』と」
次の節は、預言者が人間であることについてさらに詳しく説明しています。
「我々は彼ら[預言者]を、食事も取らないような体にはしなかった。また彼らに永遠の生を授けたわけでもなかった」

アル・アンビヤー章の第9節は、敬虔な人々に吉報を、また反対者には警告を与えています。「我々は彼らに与えた約束を守った。彼らと、そして我々が望んだ者たちを救い、一線を超える人々を滅ぼした」
アル・アンビヤー章の第10節には次のようにあります。
「まことに、我々はあなた方へと書物を下した。その中にはあなた方への訓戒がある。それなのにあなた方は考えないのか?」
コーランを預言者の空想や夢だとした反対者たちの主張に対し、この節は、コーランの偉大さに触れ、次のように語っています。
「コーランの節は人々の目覚めの源であり、彼らの幸福に必要な事柄は、この書物の中で述べられている」
反対者たちの理にかなわない主張にもかかわらず、コーランは、人類社会の目覚めや成長の要素になっており、全ての人に、その節について深く考えるよう呼びかけています。この聖典の節は、その教えが魔術などではなく、事実であることをはっきりと示しています。これほど均整の取れた言葉は、決して意味のない空想などではありません。この節のいたるところに、正しさが見られるというのに、それを偽りなどと呼ぶことはできるでしょうか? あるいは、この書物が真理に基づいているというのに、空想を軸にした詩であるなどと言うことができるでしょうか?この書物を注意深く見れば、この書物に関する不信心者の批判や矛盾した言葉が、何の根拠もない利己的な主張であることが証明されるでしょう。
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