ナーセル・ホスロー(1)
「ホッジャト」、すなわち師匠と称されるナーセル・ホスローは、イスラム暦5世紀、つまり西暦11世紀のイランにおける詩人で評論家、研究者でした。彼は1003年、現在のアフガニスタンにあたるバルフ近郊のガバーディヤーンに生まれました。
当時、この地域はイラン北東部を含むホラーサーン地方の一部とみなされていました。彼と彼の父の名前は、彼の詩の中に数回にわたって出てきており、自身の称号を「師匠」、または「ホラーサーンの師匠」という形で記しています。この称号は、エジプトを中心に栄えたファーティマ朝から彼に与えられたもので、実際シーア派イスラム教の一派、イスマーイール派の間における彼の宗教的な位置づけとされています。
ナーセル・ホスローは、自著の旅行記の中で、自身を現在のトルクメニスタンにある町マルヴの近郊のガバーディヤーンの出身だとしています。このため、一部の人は、彼をマルヴの近郊にあるガバーディヤーンの出自と見なしています。研究者は、彼の旅行記のはじめに出てくるマルヴという地域については、彼がマルヴに滞在していたことに由来し、それはナーセル・ホスローが一時期この地で宮廷に仕え、家を構えていたためだ、としています。ナーセル・ホスローは多くの詩の中で、バルフを自分の故郷だと述べています。彼はまた、バルフに庭園や土地、家族親戚を持っており、このため、一部の詩でバルフに対する望郷の念を語っています。
ナーセル・ホスローの著作によりますと、彼が王朝の宮廷に使えていた、学識と美徳のある一族の中で育ち、紆余曲折の生涯を送ったということがわかります。彼は子供時代から、当時広まっていた様々な学問を学び、その聡明さと研究者的な精神により、哲学や天文学、医学、鉱物学、ユークリッド幾何学、音楽、宗教学、絵画、修辞学、文学などの当時の学問を修得しました。
ナーセル・ホスローはさまざまな学問を学んだほか、一時期エジプトで計算法や、代数・幾何学などを教えていました。また、ペルシャ語に加え、アラビア語にも大変精通しており、このことは彼の詩の中に表れています。
ナーセル・ホスローは若いころ、世界の創造やそのほかの宗教的な問題に関する問いに答えるため、さまざまな宗教や宗派について学び、この中で多くの苦労を重ねました。彼は、この中でイスラム教のみならず、インドの諸宗教やマニ教やユダヤ教、キリスト教、ゾロアスター教についても研究しました。
ナーセル・ホスローは大変若いころ、書記の仕事に携わり、30歳に満たないうちにホラーサーン地方の王朝の宮廷に登用されました。当時ホラーサーン地方は、詩人や作家にとっての中心地で、生計や名声だけでなく、豊かな暮らしや地位を求める者も、この地に注目していました。ナーセル・ホスローも青年時代の初めには、栄華や地位を求め、ほかの詩人や作家と同じように、43歳まではホラーサーンの王朝の宮廷に仕え、高い地位を得ていました。彼は、その旅行記に記されているように、ガズナ朝の王、マフムードやマスウードに謁見していました。
ナーセル・ホスローはガズナ朝の宮廷で高い地位を得て、君主の業務や財産に関与していました。彼は宮廷の業務を行い、親しい人々の間で高い名声を誇り、有能な書記官とみなされていました。王は彼を重要な人物と呼んでいました。ナーセル・ホスローはまず、ガズナ朝の冬の首都だったバルフの宮廷で、権力と影響力を得、この町がセルジューク朝の手に落ちた後も、彼の影響力と信用は増大したと言われています。
ナーセル・ホスローは1041年ごろに当たるイスラム暦432年、セルジューク朝がバルフを制圧したあと、ホラーサーン地方の太守アブー・スレイマーン・ジャアファリーの拠点だったマルヴに赴き、そこで宮廷人としての地位を維持しました。彼は、自分の生涯が根本的に転換する原因となった内面的な変革を遂げるまでは、ほかの詩人と同様に書記としてだけでなく、王をたたえる頌詩の詩人としても活動していました。
ナーセル・ホスローは、人生の一時期を、さまざまな美徳を獲得する一方で、総督たちに仕え、娯楽も楽しみながら、富と地位を獲得する中ですごしましたが、次第に彼の内面的な状況は変化し、真理をもとめるようになりました。このため、当時のイスラム法学者と議論を行うようになりましたが、このため、彼は当時の宗教学者たちとも議論を交わしたものの、彼の探究心は盲目的な追従や確証のない受容に甘んじることはありませんでした。彼は自分の疑問の答えを、学問や真理を主張する人々から得ることができず、真理と安らぎに到達するため、大変な努力を行い、探求することを求めました。このため、彼はおそらく人生の一時期を中央アジアのトルキスタンや現在のパキスタンの一部にあたるスィンド地方、インドなどへの旅行で過ごし、さまざまな宗教学者と交流し、議論していたと思われます。
ナーセル・ホスローは、さまざまな伝承で語られている思想面での変革を遂げた後、彼はまったく別の生活を選びました。彼は常に真理に到達することを求め、この中で大変な努力をおこないました。彼の困惑と放浪は1045年、43歳のときに見た夢により、終わりを告げました。彼はこの夢の中で、ある人物にメッカの方向を提示され、真理はその方向にあると教えられたのです。この夢により、彼は7年間、旅をすることになりました。ナーセル・ホスローは真理に近づくため、兄弟とともにメッカ巡礼に向かいました。この7年間の旅は、ナーセル・ホスローの生涯における新たな時代の出発点とみなされています。
ナーセル・ホスローの著作を研究する研究者によりますと、40歳程度の男性が持つことのできる、あらゆる美しさと魅力を持つ世界は、ナーセル・ホスローから見ると、もはやそれに執着するほどの価値は何もないほど空しいだということです。偽善や偽り、暴虐に満ちた宮廷での生活は彼にとって嫌悪すべき憂鬱なものとなっていました。このため、彼は精神性を求め、精神性や内面性のしるしが存在する場所に目を向けることが必要だと考えました。そこで、友人や故郷への思いを断ち切り、旅に出たのです。
7年に及ぶ旅で、彼は4回にわたりメッカ巡礼の儀式を行い、およそ3年間はエジプトに滞在しました。また、あらゆる場所で有識者や賢者と議論を行い、内面を重視する人物の英知を身につけ、この中で多くの精神的段階を経て、シーア派イスラム教のイスマーイール派に加わり、その後イランに戻りました。彼の旅行記の中では、この7年間の旅について多くのことが語られています。ナーセル・ホスローは故郷に帰ったあと、禁欲生活や礼拝、隠遁生活に入りました。彼は、宮廷の生活を捨てて、一時期隠遁生活に入り、イスマーイール派の布教活動に努めました。
ナーセル・ホスロが持っていた特殊な信条により、一部の人々が彼に反対し、このため、彼はバルフから追放されました。彼はこの時期、生活しづらくなったことから、現在のタジキスタンとアフガニスタンにかけての地域、バダフシャーンに逃れ、この地の高山に身を寄せる場所を見つけようとしました。この山岳地帯は孤立した高地にあり、放浪の詩人にとってふさわしい避難所となりうる城砦があり、彼はこの山岳地帯での驚くべき孤立状態の中ですごしました。異境の地での孤独は、ナーセル・ホスローの詩の中で大変多く詠まれています。彼は、1088年に人知れず孤独のうちに世を去るまで、ここでの厳しい生活を続けました。
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