11月 04, 2019 13:52 Asia/Tokyo
  • ハージェ・ユーセフ・ハメダーニー
    ハージェ・ユーセフ・ハメダーニー

今回は、11世紀のイランの神秘主義者、ハージェ・ユーセフ・ハメダーニーについてご紹介することにいたしましょう。

ハメダーニーの生い立ちと経歴

ハ―ジェ・ユーセフ・ハメダーニーは1049年、現在のイラン西部ハメダーン市に当たる、ボザンジェルド村に生まれました。この村は、モンゴル軍に支配された当初は繁栄していましたが、その後は廃墟となりました。ユーセフ・ハメダーニーは、初等教育を修了した後、18歳でイラクのバグダッドに赴きました。彼はこの地で、セルジューク朝の宰相ニザームル・ムルクによって創設された教育機関、ニザーミーヤ学院において、当時の著名なイスラム法学者の1人だった、シェイフ・アブーエスハーク・シーラーズィーに師事し、イスラム法学や伝承学、神学を学んでいます。当時、ニザーミーヤ学院の学長で教師でもあったシーラーズィーは、ユーセフ・ハメダーニーを、年齢こそ若いものの、自らの教友や門下生の多くよりも優れていると考えていました。

当時、バグダッドは特にスンニー派イスラム教に属するハンバリー派やシャーフェイー派をはじめとする、様々な宗派のイスラム法学者による白熱した議論の舞台となっていました。このため、ユーセフ・ハメダーニーは議論術における専門家となったのです。その後長年が経過した65歳のころに、彼は偉大な神秘主義者の説教師としてバグダッドにやって来て、ここにあるニザーミーヤ学院にて学問や説教の集まりを開催しました。

ユーセフ・ハメダーニーは、バグダッドの優れた教師たちの存在を活用した後、イラン中部イスファハーン、東部セムナーン、北東部ホラーサーン地方へと旅をしました。彼はそこで、シェイフアブドッラー・ジュワイニーや、シェイフ・ハサン・セムナーニー、特にアブー・アリー・ファールマディーといった、当時の著名な学者たちと知り合い、彼らの存在や訓話を活用しています。その後、ユーセフ・ハメダーニーは、イランの北東部にある町ヘラートやマルヴ、さらには現在のウズベキスタンの町ブハラーやサマルカンドに赴き、門下生の教育に従事しました。

修行所の開設

ユーセフ・ハメダーニーは、イランの北東にあったマルヴの町に滞在していたころ、神秘主義の教育を受ける弟子たちの教育や指導のため、他にはない修行所を造り、そこで数多くの人々が禁欲的な修行生活を送っていました。イラク生まれの大学者イブン・ハッリカーンは、この修行所を他に類を見ないものと評しています。また、ユーセフ・ハメダーニーに関する最も古い情報を開示したイランの歴史家サムアーニーは、マルヴにあるハメダーニーの修行所において、彼と面会しています。さらに、イランの名高い神秘主義詩人サナーイーは、一部の資料によればユーセフ・ハメダーニーの門下生の1人とされています。彼は、マスナヴィー形式の詩集「真理の園」を著した後に、イランの北東の町マルヴにて、ユーセフ・ハメダーニーとともに修行に励んだとされています。

ユーセフ・ハメダーニーは、晩年の大部分をイラン北東のマルヴとヘラートで過ごしました。彼は1141年、人々の招きによりヘラートからマルヴに向かう途中、現在のアフガニスタンにあるバーミヤンで没し、ここに埋葬されました。その後、彼を慕うイブン・ナッジャールという人物が、彼の亡骸をマルヴに移し、現在の場所に埋葬しました。現在、ユーセフ・ハメダーニーの墓地は、マルヴの北方に30キロ離れた、ベイラムアリーの名で知られる場所にあり、ハージェ・ユーセフ・ハメダーニー巡礼所となっています。

自らの後継者に4人の門下生を選出

ユーセフ・ハメダーニーは、修行によって自らをさらに高めたいと考える人々や門下生らを指導するため、自らの門下生の中で特に優れた4人を、自分の後継者に選びました。彼の死後、彼の門下生らは禁欲的な修行生活を送り、神秘主義者になる為の段階で、この4人に従ったということです。

ユーセフ・ハメダーニーは、これらの優れた門下生の1人、ハージェ・アブドルハーレグ・ガジャドワーニーとともに、神秘主義においてよく知られる修行の基盤を打ち立てました。これは、後にイスラム神秘主義者のバハーオッディーン・モハンマドにより完成され、その時以来、ナクシュバンディエという修行法として知られるともに、神秘主義のなかでも最大の流派を形成しています。ナクシュバンディエ派の神秘主義の創始者は、ユーセフ・ハメダーニーとされており、数世紀にわたって中央アジアやアフガニスタン、インド、イラク、イラン、トルコ、北アフリカなどにおいて、もっとも広範なイランの神秘主義の流派を生み出しました。

ハメダーニーの作品について

ユーセフ・ハメダーニーの作品で唯一残っているのは、『人生の位置づけ』です。この作品は、分量は少ないものの、意味内容の点では非常に価値があり、考えさせられる内容となっています。この著作は、人生やこれに関する様々な位置づけについて、問答形式で書かれています。文体としては散文形式で、簡素ながらもよく練られ、流麗であり、新鮮味のあるテーマが述べられているとともに、ここで使用されている語彙や解釈も当然、斬新なものとなっています。

ユーセフ・ハメダーニーはこの著作において、自らの提唱する神秘主義を論争の方法の1つであるとしており、またペルシャ語による神秘主義的な内容の作品のうちでも、初めての作品の例となっています。この著作を改訂したイラン人の学者モハンマド・アミーン・リヤーヒー博士によれば、ユーセフ・ハメダーニーは、ペルシャ語の神秘主義的な内容の作品の執筆方法を平易なものにした、初の神秘主義者だということです。また、一部の研究者は、他にも2つの作品をユーセフ・ハメダーニーの著作として挙げています。

ハメダーニーの人物像について

ユーセフ・ハメダーニーは、神秘主義的な説教師であり、自らの神秘主義哲学を議論の方法の1つであるとしています。研究者の間では、このことはある程度、彼のバグダッドのニザーミーヤ学院での学歴に帰するとされています。ユーセフ・ハメダーニーと同時代を生きたイランの歴史家、サムアーニーの見解でも、ユーセフ・ハメダーニーはアブーエスハーク・シーラーズィーの下でイスラム法学や議論術を学んでおり、それらはユーセフ・ハメダーニーの著作『人生の位置づけ』や、彼に関する物語の一部に明白に現れています。

ユーセフ・ハメダーニーの時代の社会的、学術的な状況に視点を投じると、神秘主義者にとってごく普通の方法である、偏りのある思想は今から1000年ぐらい前の時代以降のものであることが分かります。なぜなら、この時代にはアフガニスタンのガズニ朝やトルコのセルジューク朝による宗教的な政策が行われていたことに加えて、詩を使った方法も学問や思想の世界における偏狭的で短絡的な風潮に拍車をかけていたからです。この時代において、神秘主義者はもはや、9世紀ごろのイランの神秘主義者バヤジッド・バスターミーや、ホセイン・ブン・マンスールハラージの大胆さや、自由な思想を持っていませんでした。当時の完全に偏狭的な3大神秘主義者には、シェイフ・ジャーム、ハージェアブドッラー・アンサーリー、そしてイマーム・モハンマド・ガザーリーがいます。しかし、この時代にあってユーセフ・ハメダーニーは、幅広い捉え方や自由な思想を持った老翁であり、一部の研究者は彼の人物像がバーバーターヘル・ハメダーニーやアブーサイード・アボルヘイル、アボルハサン・ハラガーニーと比較しています。

数ある神秘主義者の中でも、ユーセフ・ハメダーニーの人物像は、ガザーリーに近いと考えられています。この2人の人物の類似点は、いずれもアブーアリー・ファールマディーの弟子であったこと、神秘主義を装飾語句のない平易な言葉で、またイスラム法に沿った原則的な形で打ち立てたことです。知名度の点では、ガザーリーのほうが多くの著作を著したことで勝っていますが、ユーセフ・ハメダーニーは門下生の教育、そして自らの神秘主義による修行の方法を打ち立てたことにおいて優れています。

 

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