11月 05, 2019 13:24 Asia/Tokyo
  • ハージェ・アブドッラー・アンサーリー
    ハージェ・アブドッラー・アンサーリー

今回は、11世紀のイランの神秘主義者で、コーラン解釈者、伝承学者、そして文学者としても名高いハージェ・アブドッラー・アンサーリーについてお話することにいたしましょう。

アンサーリーの生い立ちと青少年期

アブーイスマーイール・アブドッラー・イブン・アンサーリーは1006年5月、イラン北東部の町トゥースにて、現在のアフガニスタン北部の町バルフ出身の母親のもとに生まれました。彼の家系をたどっていくと、イスラムの預言者ムハンマドの教友として名高いアブーアイユーブ・ハーレド・ブン・アンサーリー・サハービーにたどり着きます。アブーアイユーブは、預言者ムハンマドがメッカからメディナに聖なる移住を行ったときに、立ち寄った人物です。有力な伝承によれば、預言者ムハンマドがメディナに移住したときに、この町の人々や有力者たちの多くが、自分の家に泊まっていくように勧めましたが、預言者ムハンマドはそれに対し次のように述べたとされています。

“ラクダが腰を下ろしたところに泊まることにしましょう” 

すると、ラクダはアブー・アイユーブの家に腰を下ろしたため、預言者ムハンマドはアブーアイユーブの家に泊まったということです。

アブドッラー・アンサーリーの父であるアブーマンスール・モハンマド・ブン・アリー・アンサーリーは、商いを生業とし、禁欲的で神秘主義者的な性格を持つことで知られていました。アブドッラーがまだ幼いうちに、父はこの世を去り、アブドッラーは一人取り残されてしまいます。彼は、極貧と困難の中で幼少時代を過ごしました。この点について、彼は次のように語っています。「私は多くの場合において、他人から衣服を借りて人々の集まりに出かけた。また、植物を食べて空腹を待たし、日干し煉瓦を枕にして寝ることもしばしばだった。私の家は、全てがムシロで出来ており、ムシロをしいてそこに寝た。そして、破れたフェルトをよく着ていた」

アブドッラー少年は、幼少時代から勉学を開始し、教師のもとで伝承学やコーランの解釈などを学びました。彼の恩師の1人は、イラン南部の町シーラーズから現在のアフガニスタンの町ヘラートにやって来て、学びや議論の場を設けていた、ヤヒヤー・イブン・アンマール・シェイバーニーでした。この人物は、神秘主義とイスラム法の比較を試みており、彼のそうした方法は教え子であるアブドッラーにも大きな影響を及ぼしています。当時まだ年若いアブドッラーが、天性の記憶力により教師たちに注目され、コーランやアラビア語の詩の暗誦において、ほかの同年の門下生よりも秀でていたことはよく知られています。

アブドッラー・アンサーリーは4歳にして、現在の学校のような私塾に通い、9歳で詩を吟じ、多くの伝承学者の書いた内容を暗記していたと言われています。

アンサーリーは、イスラム教スンニー派の中でも、シャーフェイー派に属していましたが、その後しばらくしてハンバリー派に転向しました。彼は1026年、21歳のときにさらに上級の学問を学ぶために、イラン北東部ホラーサーン地方の町ネイシャーブールに赴きました。10世紀から11世紀にかけて、ホラーサーンはイスラム神秘主義をはじめとする学問の中心地でした。このため、イラクや中央アジアからは神秘主義の巨匠たちがホラーサーンにやって来て、ここにある図書館に収蔵されている学術書を利用していました。

ハンバリー派への貢献

ホラーサーン地方では当時、アブーナスル・サッラージやアブーバクル・ムハンマド・キャラバーズィー、アブーアブドッラフマン・ソッラミー、イマーム・アボルガーセム・ゲシャイリーといった偉大な神秘主義者が活躍しており、それぞれがイスラム神秘主義を豊かなものにしていました。当時、学問の雰囲気にあふれた大都市として繁栄し、ネイシャーブールがその中心地であったホラーサーン地方の神秘主義の流派の基本は、イスラム法や修行、のた逸脱や異端との戦いを集めたものでした。こうした目的により、サッラージやその弟子のソッラミー、さらにその弟子のゲシャイリーといった偉大な神秘主義者は、ネイシャーブールに特別な学校を設立しました。ホラーサーン派として名声を博していた、この地に広まっていた神秘主義は、この流派の巨匠たちの言い伝えによるところが大きかったのです。アンサーリーは、この流派において育成され、この流派の伝道者や原則に忠実に従っていました。

アンサーリーが、ホラーサーン地方の神秘主義の流派に対して行った、最も重要な貢献は、神秘主義の修行のプロセスや段階を成文化し、階級付けにおいて新たな手順を打ち出したことです。彼が行った修行者の階級付けの特徴として、修行をする人の修行の進み具合のみではなく、その人のモラルや日常生活の習慣なども加味し、修行者全員が生活も維持した上で精神性を高めるプロセスを進み、修行の方法を宗教法と抱き合わせにしようとしていたことが挙げられます。

学問への没頭

アンサーリーは、その天性の才能により、最短期間で宗教学や文学の多くを習得しました。また、その奥深い勉学により、開眼した学者、神秘主義者として名声を博し、彼の周りには彼を慕う多くの人々が集まっていました。こうした人々は美徳を身につけ、精神性を高めるために彼の存在を活用していたのです。

アンサーリーは、自分の貴重な人生を片時も無駄にすることなく、夜明けから夜中までコーランの節を朗誦し、これについて考えにふけっていました。また、ある時には説教師やイスラム学者の話に耳を傾けていました。これについて、彼は次のように述べています。

「私は、毎日書き物をし、自分の1日の時間を分けて、手持ち無沙汰な時間がないようにしていた。夜が明けると、自宅の屋上に上ってコーランを読み、そして再び下に下りてほかの勉強をした。夜は、灯りの元で伝承学を記した。パンを食べる時間もなかったので、母がパンを一口大にちぎり、私の口に入れた。書き物の合間に、崇高なる神は私に記憶力を与え、私は自分が筆録するそばから、全て記憶していった」

神秘主義者ハラガーニーとの邂逅

アンサーリーは、1032年にメッカ巡礼の旅に出かけました。途中で、イラクの首都バグダッドに停泊し、アブーモハンマド・ヘラール・バグダーディーによる学問の講義に耳を傾けました。彼は、メッカ巡礼の帰りにイラン北東部の町トゥース、東部の町バスターム、ハラガーンに立ち寄り、ハラガーンでは有名な神秘主義者アボルハサン・ハラガーニーとの邂逅を果たしています。彼は、ハラガーニーとの面会で強い影響を受け、自分が幼い頃に父親の教えのおかげで芽生えていた、神秘主義者としての才能を開花させることに成功しました。彼は又、自分と同時代を生きていた神秘主義の巨匠、アブーサイド・アボルヘイルからも、美徳を学び取っています。

故郷への帰還と晩年

アンサーリーは、様々な都市において学びや討論の場を設けていた、当時の著名な恩師たちの存在を活用した後に、最終的には故郷に帰り、そこに住処を定めて門下生の教育に当たりました。当時は、スンニー派の一種であるシャーフェイー派のイスラム法学の殿堂とされた、イラン北東部のニザーミーヤ学院で、この宗派の著名なイスラム法学者イマーム・アルハラマインが教鞭をとっていた時代でした。しかし、そうした中でアブドッラー・アンサーリーは神学に反対し、これを否定する形で、書物を著したのです。このため、彼は何度も、暗殺すると脅迫され、当時の大宰相ニザームルムルクの命令により、故郷のネイシャーブールから追放されてしまいました。当時、セルジューク朝の有力な大臣は、アンサーリーの学識や敬虔さに注目し、彼の尊厳を維持して、彼を反逆者の攻撃から守りました。アンサーリーの存在を理由に、ネイシャーブールの町に対立の炎を燃え上がらせることを許可することはできなかったのです。

イスラムの長という異名をとり、現在のアフガニスタンにあるヘラートの町で、多くの門下生を教えていたアンサーリーは、晩年に失明しました。彼は、1089年3月に85歳でこの世を去り、ヘラートから10キロ離れたガーザルガーの町に埋葬されました。ここには、アンサーリーを祀った霊廟が建てられ、この偉人を慕う人々や門下生にとっての巡礼所となっています。

 

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