コーラン第22章アル・ハッジ章巡礼
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聖典コーラン
今回は、コーラン第22章アル・ハッジ章巡礼を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
コーランの第22章アル・ハッジ章巡礼は全部で78節あります。
アル・ハッジ章は、復活という衝撃的な事実を思い起こさせる節で始まります。これらの節は、人間をこのはかない物質的な生活から解き放ち、恐ろしい結末について警告しています。
アル・ハッジ章の第1節と2節を見てみましょう。
「人々よ、あなた方の主を畏れて従いなさい。明らかに、最後の審判の揺れは恐ろしく大きなものである。あなた方がそれを見る日、授乳中の母も乳飲み子のことを忘れてしまうだろう。また妊婦は胎児を失い、人々が酔っているのを見る。だが彼らは酔ってなどおらず、神の責め苦が厳しいだけである」
この2つの節は、重要な事実に触れています。それは、復活が、創造世界の激しい変化を伴うものだということです。山が地面から離れ、海が荒れ、天と地が混乱し、新しい世界が始まります。人々は最後の審判を前に大きな恐怖に包まれ、困惑し、酔った人のようにあちこちを歩き回ります。
次の節は、一部の人々が、神について何の知識も持たずに議論することについて触れています。彼らは、無知に根ざした模倣や偏った考え方によって反抗し、確かな根拠もないのに、時に唯一の神や最後の審判を否定します。コーランは、このような考え方の根源は、欲望や悪魔に従うことにあるとしています。明らかに、悪魔に従う人は迷いに陥り、幸福にいたることはありません。
この章はこの後の節で、復活の可能性を絶対的なものにする2つの現象を挙げています。一つは、胎児の変化であり、もう一つは、植物が成長する際の大地の変化です。アル・ハッジ章代5節では、胎児が生まれるまでの成長過程に触れています。
科学がまだ発達しておらず、人々は人間の胎児期についてほとんど知識を持たなかった時代に、コーランが胎児の成長過程に関して正確な情報を記していたことは、それ自体、これが神の啓示であり、優れた世からの書物であることを証明しています。興味深いのは、この節が下されてから1400年以上が経過したにも拘わらず、コーランが胎児の成長過程について述べている事柄は、新たな科学の発見と少しも矛盾していないことです。これは、この書物の驚異、科学的な奇跡と見なされています。
この後の節では、人間が誕生した後の新生児の成長過程が述べられています。この過程は留まることがなく、人間は若年、中年と成長を続け、能力の頂点を極めます。しかしその後は人生の後退期が始まり、老年期を迎えます。その頃には、肉体の衰えが激しくなり、子供のときに似た状況になります。そして記憶を失い、思考力や知性が衰えます。このような状態は、新たな移行の段階が訪れるためのものです。それは、果物が枝から離れるのが、実が熟して別れのときが来たためであるのと同じです。このような過程を初めから終わりまで追ってみると、死人を蘇らせるなど、神が全てのことに力を持っており、その力は無限であることが分かるでしょう。
この他、第5節では、冬の間に死んだ大地が春になると蘇ることが述べられています。死んだ大地は雨が降ることで蘇り、潤いを得、緑豊かな木や美しい植物がそこから芽を出します。これは、自然の中の最後の審判の象徴です。
「大地を乾いた状態で見るだろう。だが、我々がそこに雨を降り注ぐと、それは躍動し、成長して、やがて様々な種類の美しい植物を育てる」
アル・ハッジ章の第6節を見てみましょう。
「これは、神こそ真理であるためである。神は死んだものを蘇らせ、全てのことに全能であられる」

アル・ハッジ章の第25節から37節は、預言者イブラヒームによって神の家、カアバ神殿が建設され、人々にハッジのメッカ巡礼と、それが政治や社会、礼拝面でもたらす効果について語っています。そして、このメッカ巡礼という大きな宗教義務について説明しています。実際、この章は、数多くの節でメッカ巡礼について語っているため、「アル・ハッジ」という名前が付けられています。
アル・ハッジ章の第26節には次のようにあります。
「[思い出すがよい。]我々はイブラヒームのために家[カアバ]の場所を用意し[、彼にこう言っ]た。『なにものも私と同等に据えてはならない。また、周囲を巡礼する人、礼拝に立つ人、跪く人、ひれ伏す人々のために、私の家を清めるがよい』」
言い伝えによれば、カアバ神殿が建設されたのは、アーダムの時代のことです。しかし、預言者ヌーフの時代の嵐で破壊されてしまい、跡形もなく消え去ってしまいました。神はその場所に、イブラヒームのために明らかにしました。イブラヒームは息子のイスマイールの助けを借りて、それを再建します。イブラヒームは、神の家とその周辺から、あらゆる精神的、表面的な穢れ、偶像崇拝や多神教信仰の象徴を振り払い、人々がこの清らかな場所で神のみのことを考え、礼拝を行うことができるようにする任務をつかさどりました。カアバ神殿の準備が整えられたあと、神はイブラヒームにこのように命じます。「人々の間で巡礼を叫びなさい。彼らが歩いて、あるいは家畜に乗って遠くからでもお前のもとに来れるように」
言い伝えには次のようにあります。「イブラヒームはそのような命を受けたとき、『主よ、私の声が誰かの耳に届くことはありません』と言った。しかし神は仰った。『あなたは宣言するのだ。私が彼らの耳に届けよう』 イブラヒームは東と西に向かって言った。『人々よ、神の家の巡礼があなた方に定められた。神の誘いに応じるがよい』 神はイブラヒームの声を、全ての人、父の背中や母親の胎内にいた人々にさえも届け、彼らもそれに答えて言った。『神よ、あなたの誘いを受け入れた』」
ハッジの壮麗な儀式は、イスラムの他の宗教儀式と同様に、個人や社会に多くの恩恵をもたらすものであり、もしそれをうまく活用すれば、イスラム社会の重要な変化の起点となりえます。ハッジは礼拝行為ですが、政治、社会、文化、経済的な側面も持ち合わせています。
メッカのイスラム教徒は、常に、多神教徒の嫌がらせを受けていました。彼らは暴力を振るわれたり、迫害されたりして預言者ムハンマドに不満をもたらしていました。預言者ムハンマドも、彼らに忍耐を勧め、このように言いました。「私はまだ、戦争を命じられていない」 こうしてとうとう、預言者ムハンマドはメディナに移住し、アル・ハッジ章の第39節が下されました。イスラム教徒は迫害や攻撃に耐えた後、この節が下ったことによって初めて、多神教徒と戦うことが許されたのです。
「侵略を受ける人々には防御が許される。神には彼らを助ける力がある」
この節は続けて、神の道における戦いの一部の動機や理由に触れています。被抑圧者の抑圧者への対抗と戦いは、圧制を受けた人々の人間としての当然の権利です。被抑圧者は立ち上がり、圧制者を打ち倒さなければなりません。神の道における戦いの動機のひとつは、神の名を人々の心から消し、思想の啓蒙の中心地である礼拝所を破壊しようとする圧制者と戦うことです。このような人々には対抗すべきであり、そうすることで、彼らが神の宗教を人々の心から消し去り、人々を自分に従わせることができないようにするのです。とはいえ、もし被抑圧者が立ち上がれば、神が必ず彼らを助けてくださり、その援助は幅広いものとなるでしょう。
この節は続けて、昔の民の物語に注目し、堕落や罪、腐敗に陥った人々の教訓に溢れた運命を紹介しています。アル・ハッジ章第73節では、空想上の崇拝の対象が、石や木であろうと動物や人間であろうと、いかに無力なものであるかを簡単なたとえを用いて説明し、無限の力は唯一の神のみのものだとしています。
「人々よ、あなた方は[偶像崇拝に関して]挙げられたたとえを聞くがよい。あなた方が神の代わりに祈るものには、たとえ力を合わせたとしても、一匹のハエすら創造できない。またハエから何かを奪われたとしても、それを取り戻すことすらできない。祈る者も、また祈りの対象となるものも、どちらも無力である」