アーシューラー
今日はイスラム暦1445年ムハッラム月10日、この日はシーア派ムスリムの間ではアーシューラーと呼ばれます。
イスラムあるいは人類の歴史で、最も善と悪がぶつかった戦い、あるいは最も英雄的な出来事は、イラクのカルバラーで起きました。
今から1384年前(イスラム暦61年)のこの日、預言者ムハンマドの孫のイマーム・ホサインは、72人の家族・教友らとともに、神の教えを守るため、そして圧政に抵抗するため、時のウマイヤ朝カリフ・ヤズィードの軍団と戦いました。
イマーム・ホサインはクーファ(現在のイラクの都市)の人々の求めに応じて、この街に向かっていましたが、ヤズィードの軍はその進路を塞ぎ、ホサインに対して自らのカリフの地位を承認するよう迫りました。
この要求はホサインの激しい反対に遭い、両者は決裂したため、ムハッラム月10日の朝、戦いが始まりました。
戦いは正午ごろまで続き、その間にホサインに尽くした家族・教友は殉教しました。
イマーム・ホサインのこの蜂起は、勧善懲悪と預言者ムハンマドの教えを再生させることが目的でした。これに対し、ヤズィードがこの戦いで犯した犯罪、特に戦いの後で女性や子供を捕虜として連れ去ったことは、イマーム・ホサインの敵が歴史における無知として知られる要因になりました。
イスラムにおいて、預言者の一門(アラビア語でアフル・アルバイト)は、ムハンマド以前を含む預言者たちの教えを受け継ぐ家系です。イマームとは、ムハンマド亡き後にその地位を引き継いだ指導者の位の名で、ホサインはその3代目イマームにあたります。
ホサインが生きた時代、イスラム世界はウマイヤ朝により支配されていました。当時の世相は、イスラム登場以前の因習や無知への回帰が見られました。
ホサインは当初は沈黙を守ってこの状況に耐えていましたが、ウマイヤ朝初代カリフのムアーウィヤが死去すると、その不正で悪名高いヤズィードがカリフに即位しました。ヤズィードは公然とイスラムの教えを反故にしたため、ホサインはついに彼に対する蜂起を決意します。
ホサインは当時の人々に対して、この不正がはびこった状況を変えようと呼びかけますが、人々にその気がないとわかると、勧善懲悪と預言者の教えの再生のため、自ら蜂起の旗を掲げたのです。
不正を正すことは、どの人間社会においても価値のあることです。それは、社会を迷妄から救い、倫理に基礎づけ、不正義や貧困、身の危険、汚職などを一掃することです。
イマーム・ホサインが目の当たりにしたのは、改革をうたった不正でした。コーランには、不正を行う者たちほど自らの行為を改革と言い張るといった内容の節があります。
イマーム・ホサインは、こうした不正に対して、言葉ではなく自ら血を流す蜂起で挑んだのです。