イスラム共同体の改革のために立ち上がった男、イマーム・フセイン
イスラム教の預言者ムハンマドの孫で、シーア派3代目イマームのフセインは生前こう語りました。「私は陰謀や不正、圧制に立ち向かって蜂起したのではない。父祖たち(=ムハンマドの家系)の共同体の改革のために立ち上がったのだ」
【ParsToday宗教】イマーム・フセインほど、その内面に自由と自立を求めた人物はいないでしょう。彼は精神性や純粋さ、正義感、また神に対する忠誠心で模範となる存在です。この記事では、イマーム・フセインの生涯とその思想をたどってみます。
フセインは西暦626年(イスラム暦4年)、現在のサウジアラビア・マディーナで生まれました。父親は初代イマーム・アリー、母親は預言者ムハンマドの娘・ファーティマです。フセインという名はムハンマドによる名づけと言われています。
イマーム・フセインは、ムハンマドがその人徳を認めたという逸話や、当時のウマイヤ朝の圧制に立ち向かったことなどから、シーア派のみならず、スンニ派の間でも尊敬される存在です。
イマーム・フセインは、当時のウマイヤ朝カリフであったムアーウィヤの統治を批判していました。その地位が息子のヤズィードに移ると、フセインはヤズィードの統治に従うことを拒否しました。フセインはヤズィードを圧政者で、非人間的・反社会的な人物とみなしていたからです。フセインは、社会を統治する者は預言者ムハンマドのような人物であるべきと考えており、そして誰がそれに該当するかはムハンマド自身が死去前に明確にしていました。しかし、ヤズィードはフセインに対し、自らに従うよう迫り、受け入れない場合は殺害するとまで言い出すようになります。
フセインはそのような圧力から逃れるため、マディーナを後にし、メッカへ移ります。フセインはそこで4カ月ほど滞在し、その間、クーファ(現在のイラク)の住民から指導者として来てほしいという懇願の手紙を数多く受け取りました。フセインは使者を遣わし、クーファを視察させます。使者はクーファの住民がフセインを支持すると判断したことから、フセインはメッカを発ち、クーファに向かいました。一方、ヤズィードもフセインの一行を阻止するために、軍を向かわせました。
そして、イスラム暦61年ムハッラム月2日(西暦680年10月2日)、両者は現在のイラク・カルバラーの地で対峙します。しかし、イマーム・フセインに忠誠を誓ったはずのクーファの住民は、その約束を破って彼と行動をともにせず、カルバラーには来ませんでした。このため、ヤズィード側の軍勢がおよそ3万人だったのに対し、イマーム・フセインの一行はわずか72人にとどまりました。
しかし、イマーム・フセインが敵に降伏することはありませんでした。ムハッラム月10日、フセイン一行は過酷な戦いを強いられます。水の補給をヤズィード軍に絶たれ、壮絶な苦しみの中、フセインらは殉教しました。ヤズィード軍は、フセインらの首をはね、それをヤズィードのもとに届けました。
イマーム・フセインは殉教前にしたためた手紙の中で、「私は陰謀や不正、圧制に立ち向かって蜂起したのではない。父祖たち(=ムハンマドの家系)の共同体の改革のために立ち上がったのだ。善を説き、悪を戒め、父祖たちのように行動したいのだ」と記していました。
預言者ムハンマドは生前、「フセインとは私であり、私はフセインである」と語っていました。その意味するところは、フセインにより自分の信仰が生き続け、人間性がその目的に達するということでした。
現在、イマーム・フセインが眠るイラク・カルバラーの廟には、世界中から自由を求める人々が訪れ、彼の殉教はそうした人々の闘いの精神的基盤となっています。