西側の犯罪の歴史を振り返る|1947年のオランダ軍によるインドネシアでの住民虐殺
https://parstoday.ir/ja/news/world-i129516-西側の犯罪の歴史を振り返る_1947年のオランダ軍によるインドネシアでの住民虐殺
インドネシアにおけるオランダ軍の残虐行為はオランダ植民地時代のみならず、第2次世界大戦後、特にインドネシア独立戦争(1945~1949年)の時期にも発生しました。
(last modified 2025-09-22T08:09:40+00:00 )
9月 22, 2025 16:56 Asia/Tokyo
  • オランダ軍によるインドネシア民間人への残虐行為
    オランダ軍によるインドネシア民間人への残虐行為

インドネシアにおけるオランダ軍の残虐行為はオランダ植民地時代のみならず、第2次世界大戦後、特にインドネシア独立戦争(1945~1949年)の時期にも発生しました。

【ParsToday国際】インドネシア独立戦争中にオランダ軍が犯した重大な残虐行為の一つは、1947年のインドネシア・西ジャワ州バロンサリ村(旧ラワグデ村)での住民虐殺です。この虐殺は、オランダ植民地軍がインドネシア先住民に対して行った残虐な暴力と弾圧を象徴しています。ラワグデはジャワ島にある小さな村で、事件当時はインドネシアの抵抗勢力の拠点となっていました。しかし、この事件がインドネシア史上最も悲劇的な出来事の一つとなったのは、オランダ軍が防衛手段を持たない民衆に暴力をふるった際の、その残虐性と暴力の度合いの高さによります。

1945年、第2次世界大戦と日本によるインドネシア占領が終結した後、インドネシアは独立宣言を決定しました。しかし、この動きは植民地への帰還を望むオランダの即座の反応に直面したのです。インドネシア独立戦争が始まり、この戦争は民衆の激しい抵抗を受けました。スカルノ(インドネシア初代大統領)やムハンマド・ハッタ(同初代副大統領)といった指導者が率いるインドネシア民族主義勢力はオランダの支配に抵抗し、オランダにとって戦略的な地域であったジャワ島を含む多くの地域で頑強に抵抗しました。

ジャワ島にあるラワグデ村は、インドネシアの戦闘員がオランダ軍と対峙しようとしていた地域の一つでした。1947年、オランダ軍はこの地域の抵抗勢力を排除するため、大規模な攻勢の開始を決定しました。インドネシアの抵抗勢力の完全鎮圧を目指したオランダ軍によるプロダクト作戦が開始されました。この作戦中、オランダ軍はラワグデ村を攻撃し、村民全員を激しく弾圧したのです。

この作戦において、オランダ軍は防衛手段を持たない民衆を大量虐殺しました。目撃者の証言によれば、女性、子供、高齢者を含む400人以上の民間人が虐殺で命を落としたということです。多くの場合、人々は残忍な暴行を受けており、中には家族の目の前で殺害された者もいました。殺害に加え、村や農場も焼き払われ、多くの人々が住む家を失い、他の地域への避難を余儀なくされました。

これらの攻撃でのオランダ軍の主な目的は、インドネシア国民の間に恐怖と戦慄を植え付け、この地域における抵抗を弾圧することでした。オランダは、こうした戦術を用いてインドネシアの独立を抑圧し、自らの支配権の再確立を企んでいました。しかしこれらの虐殺は逆効果となり、インドネシア国民の抵抗精神と、植民地主義者に対する団結を強めることとなったのです。

この虐殺事件は、インドネシア独立戦争中にオランダ軍が犯した重大な残虐行為の一つであるとともに、外国植民地主義に対するインドネシア国民の抵抗の歴史における転換点ともなりました。それから年月が経過し、歴史資料が公開されるにつれ、これらの犯罪の詳細が明らかになり、インドネシア国民は正義と賠償を求めました。オランダ政府はここ数十年でこれらの犯罪について公式に謝罪しましたが、多くのインドネシア国民は依然として、これらの行為に対する十分な補償がなされていないと考えています。

インドネシア・ラワグデ村虐殺は、戦争の残虐さ、そして先住民の命を犠牲にして奴隷化し、自由と独立を奪おうとした植民地勢力の残虐性を今なお想起させるものです。この事件はインドネシアの歴史における暴虐と抑圧の象徴であり、同国民の集合的記憶の中に今なお生き続けているのです。

 


ラジオ日本語のソーシャルメディアもご覧ください。

Instagram Twitter