イラン書道の歴史、発祥から現在まで
イラン歴メフル月21日にあたる10月13日は、イラン書道協会により、国民書道デーに定められています。
イラン書道協会が1950年10月13日に設立されたことから、毎年この日は書道週間が始まる日とされています。今年は初めて、イラン全国にあるイラン書道協会の320箇所の支部において、書道週間にまつわる行事が実施されています。
テヘランで実施されている書道週間に関するイベントとして、様々な流派の書道の展示会の開催、書道展での入賞者の参加による芸術の館での講演会や会合、書体の1つであるナスフ体に関する専門的な会合の開催、書道の講習会、19世紀のイランの書道家セイエド・アリーアクバル・ゴレスターネの作品と生涯についての研究会の開催などが挙げられます。
書道はアジアで非常に重視され、最高の水準にまで発展している一方で、世界の多くの文化に見られます。英語で書道を意味するカリグラフィーという言葉は、15世紀にラテン系諸語の辞書に語彙として取り入れられ、19世紀以降にようやく1つの表現として認知されるようになりました。しかし、イランを初めとするイスラム諸国や中東諸国では太古の昔から、書道が典型的な芸術として知られていたのです。
ヨーロッパでは、古くから文字を美しく書き表すことが注目されており、それは古代ローマの碑文の存在や新約聖書の写本の一部などからも明らかです。しかし、書道はヨーロッパにおいては副次的芸術(サブアート)とされ、神学生の間で、または図書館で使われる物と見なされていました。また、中国の書道も、抽象的で独自の印象を放っており、思想や感情の表現が可能であることから、絵画に近い要素を有しています。また、日本や韓国などの国でも状況は大体これに類似しており、極東地域では一般的に、書道芸術は僧侶たちの間に広まっていましたが、絵画と共に驚異的な発展を遂げています。
書道は、イスラム圏における最も典型的な古代芸術であり、全てのイスラム教徒にとっての共通の言語とされてきました。書道芸術は常に、イスラム教徒にとって特別な価値を有するものでした。それは、この芸術が神の言葉を具現したものと見なされていたからです。
アラビア半島全域にイスラムが拡大するにつれて、イランや中央アジア南部のオアシス地域、インドの一部、北アフリカ、スペインのアンダルシア地方では、アラビア語がこれらの地域住民の本来の言語にとって代わり、或いは少なくともアラビア文字が旧来の文字に取って代わり、イスラム圏全体に共通する文字が出現しました。絵画や彫刻、音楽といった芸術には相対的な制限が存在し、時にはこれらの芸術が禁止されることもあったため、書道芸術は常にイスラム諸国全域において、最も崇高な芸術として注目されてきたのです。
イスラムの聖典コーランの最も古い手書きの写本は、クーフィー体で書かれており、シーア派初代イマーム・アリーによるものとされています。しかし、11世紀ごろになると、外見的にやや硬い感じを与えるクーフィー体は、ナスフ体という弓なりの曲線の多い書体にほぼ取って代わられました。
10世紀の初めごろには、イランの書道家のイブン・ムクラが、それまでに存在していた6つの異なる書体を組み合わせ、しかもこれらの書体とは全く異なる書体を考案しました。さらに、彼はこの新たな書体で文字を書く上で有名な12の原則を打ち出しています。
イスラム以前のイランには、楔形文字やパフラヴィー文字、アヴェスター文字といった様々な文字が存在していました。しかし、イスラムが出現してからは、イランの人々はイスラムのアルファベット文字を受容しています。もっとも、通常の言葉を書道により芸術的に書くという大きな課題を担ったのはイラン人であり、イランの芸術家たちは、次第に書道における自分たち独自の様式を生み出していったのです。
こうした書法は、その他のイスラム諸国でも愛好されてはいますが、やはりその中心となるのはイランを初め、イランと共通した文化を持つ中央アジアやアフガニスタン、パキスタン、インドといった国々だといえます。これらの地域では、書道は常に最高の視覚芸術として注目され、独自の繊細さを持ち合わせています。
イランではイスラム伝来後も、ナスフ体による書道が存在していました。イルハン朝時代には、書物のページが初めて図柄により装飾されています。さらに、ティムール朝時代には、書道や文字芸術が完成の極致に達し、ミールアリー・タブリーズィーという書道家が旧来のナスフ体とタアリーク体を組み合わせた、ナスタアリーク体という、ペルシャ書道独自の書体を考案しました。この時代にコーランを書道により書き表した最も著名な書道家に、バイスングル・ミールザーが挙げられます。
イラン式の書道や書法として知られているものの多くは、詩集の書き表し、高尚な芸術作品の制作、或いは官公庁の書簡の作成といった、宗教以外の目的による内容を書き表すために考案され、使用されています。一方、アラビア語やオスマントルコ語に使われている文字は、宗教的な側面が強く現れています。もちろん、これらの文字も秘書業務や書記といった、宗教以外の目的でも多用されていました。しかし、芸術として最高の域に達したのは、イラン書道とは異なり、コーランやイスラムの伝承ハディース、そして宗教書をスルス体やナスフ体で書き写した、宗教関係の写本としてのことです。
イランでも、コーランやハディース、各種の伝承やモスク、神学校に使用される碑文といった宗教に関係する場合においては、スルス体やナスフ体が多く使われています。もっとも、イラン人はこれらの書体においても別途に独自の様式を生み出してきました。
イラン式の初の書体としては、タアリーク体が挙げられます。この書体は、今から800年ほど前に出現し、およそ100年間にわたって存在したもので、ナスフ体とレガー体という書体を組み合わせて考案されたものです。タアリーク体を正書法として体系化したのはハージェ・タージ・サルマーニーという人物でした。後になって、この習字体はさらに体系化が進み、より精錬された書法となっています。
初のイラン式の書体としてのタアリーク体に次いで、今から700年ほど前にはミールアリー・タブリーズィーがナスフ体とタアリーク体を組み合わせて、ナスフ・タアリーク体という習字体を生み出しました。この書体の名称はその後、時代の経過とともに変化してナスタアリーク体と呼ばれるようになっています。この書体は非常に歓迎され、書道芸術に大きな変化を起こしました。さらに時代が下って、サファヴィー朝のアッバース大王の時代になると、ナスタアリーク体は書道の巨匠ミールエマード・ホセイニーにより、美しさを極め、最高の極致に達しました。
ナスタアリーク体は、現代のイラン国内の書道家はもとより、中央アジア諸国やアフガニスタン、そして特にイラン文化圏内にあった、インドのムガール朝の宮廷に所属する書道家たちにより、目覚しい発展を遂げました。
そして、今から400年ほど前には、モルテザー・ゴリーハーン・シャームローにより、ナスタアリーク体をさらに崩して変更を加えた、第3のイラン式の書体であるシェキャステ・ナスタアリーク体が考案されました。この書体が出現した理由として、筆録の際により迅速かつ容易に筆記するというニーズを満たすものであること、そしてイラン人の趣向や創意工夫によるものであることが指摘できます。タアリーク体が出現してから、筆記の迅速化を目的にタアリーク体を崩した書体が考案された時と同様に、今から250年ほど前の書道家ダルヴィーシュ・アブドルマジード・ターレガーニーにより、ナスタアリーク体は完成の域に達しました。
ガージャール朝時代になると、新聞や石板印刷の出現により、書道は筆録という本来の目的から離れ、芸術的な目的で使用され、応用芸術の域に近づきました。1979年のイスラム革命前には、ビジネスや宣伝といった現代的なニーズにより、書道家たちの間で文字が再びクローズアップされています。そして、現代芸術の潮流は、かねてから世界の芸術界でも注目されていた書道絵画というスタイルを生み出しました。
イスラム革命後、過去40年間においては、書道は広く一般に受け入れられており、イラン書道協会が書道芸術の質的、量的な発展に向けた大きな役割を担うこととなりました。この組織は、イランの国内各都市の多く、そして一部の外国に支部を持っており、多くの芸術愛好家を育成しています。
さらに、近年においては現代の書道家ハミード・アジャミー氏により、イスラム書道の書体であるスルス体と、イラン人が考案したシェキャステ・ナスタアリーク体を組み合わせた新たな書体である、モアラー体が考案されました。この書体はこれ
までに歓迎され、一応の成功をおさめています。さらに、イラン書道における最近の業績として、ソブハーン体の考案が挙げられます。この書体は、旧来のナスフ体とスルス体のように体系化された書体の1つであり、ペルシャ語やアラビア語による筆記や碑文の制作が可能です。書道家たちの間では、ソブハーン体はイスラム書道における6つの基本書体(ムハッゲグ、ナスフ、スルス、レイハーン、レガー、トウギーの各書体と同様に、完全に体系化された書体とされています。