7月 25, 2016 19:00 Asia/Tokyo
  • サーサーン朝時代の服飾(1)

今回は、紀元224年から651年のイスラム以前にイランを統治したサーサーン朝時代の服飾についてご紹介しましょう。

パールス人をルーツとするサーサーン朝は、アジアの大部分を治め、ローマ帝国と共に、長い間、世界の大国として君臨していました。

 

 

サーサーン朝時代、イランの首都は、現在のイラク・バグダッドの近くにあるティーソフーン(クテシフォン)という町に置かれていました。サーサーン朝は、イランの歴史の中で、最も重要な時代です。この時代、イランの文明は、多くの点で繁栄を遂げましたが、イスラムの出現により、急速に衰退に向かいました。

 

社会学者や研究者らは、この衰退の理由は、サーサーン朝の社会に階級格差が生まれ、不公正が蔓延したことにあるとしています。サーサーン朝の初代皇帝、アルデシールバーバカーンは、226年に王座につき、まもなく、政治、防衛、社会、経済、文化、芸術など、様々な分野に大きな変化を加えました。このような変化は、当初は全ての人にとって好ましいものでしたが、次第に、宮廷のわずかな人々が富を蓄え、社会から離れていったために、サーサーン朝崩壊の下地が内側から出来上がってしまいました。

 

サーサーン朝時代の重要な問題の一つは、中国とビザンツ帝国の間の絹の取引でした。この取引のためには、シルクロードを通過しなければなりませんでしたが、シルクロードはイランを通過しており、サーサーン朝の王たちは、パルティア人と同じように、まもなくシルクロードの重要性に気づきました。この道は、地理的な条件により、多くの経済的な利益を伴っていました。中国でとれた生糸は、シルクロードを通してイランに入ってきました。そしてイランで絹織物にされ、ローマに運ばれていました。なぜならビザンツ帝国では、ぜいたく品の需要が高かったからです。

 

 

長年にわたるアジアの最も重要な生産物は絹でした。香水や香辛料なども、多く使用され、これらの生産物も市場で重要な位置を占めていました。なぜなら、ビザンツ帝国の貴族階級は、それらに大きな関心を示していたためです。さらに、イランはインドや現在のスリランカやサウジアラビア、エチオピアとも海を通じてつながりを持ち、自国の皇帝や宮廷の人々の日々高まるニーズを満たすため、これらの地域から象牙や宝石を輸入していました。

 

中国人は、絹の生産の秘密を誰にも漏らしませんでした。ビザンツ帝国は、中国と密接な関係を持っていましたが、それ以上にイランと緊密な関係を持っていました。なぜなら、イランの協力や助けを必要としていたためです。皇帝たちの衣服は完全に絹でできていました。そのため、常に布を蓄えておく必要がありました。ビザンツ帝国では、権力や偉大さの象徴の一つが、純粋な絹のみで作られた服を身につけること、そして一度身に着けた衣服は二度と着用しないことにあったからです。

 

紀元4世紀以降、すべての階層の人々が、服を作るために絹の布を手に入れられるようになりました。キリスト教会は、最も絹にこだわる絹製の衣服の消費者として知られています。このような状況の中、シルクロードが大きな力を与えたため、彼らはそれを最大限に活用しようとしました。こうして、イランとローマ帝国の間で、シルクロードを巡る数多くの戦争が起こりました。しかし実際、イランは、ローマ帝国を倒すためには、シルクロードを閉鎖すれば十分でした。なぜなら、そうすることで絹の布がローマ帝国に届かなくなるからです。このような流れに対し、ローマ帝国は、多くの場合、妥協して話し合いの道を選ぶことを余儀なくされました。

 

この道の価値を知っていたサーサーン朝の皇帝たちは、全力でこの道の安全を確保し、取引が最高の形で行われるようにしていました。この道の通行税の取立人は、わずかな値段でイランの製品を手に入れることができましたが、西側に入ったとたん、重い税がかけられました。このような状況は、525年から565年のユスティヌスの時代まで続きました。その後、中国に暮らしていた2人のイラン人が、絹の生産の秘密を手に入れました。

 

イランは、サーサーン朝時代、このような優れた状況を利用し、すぐに織物の技術において発展を遂げました。これらの製品は、量と質の点で、国家のニーズの応えるものでした。この時代の6枚の布が、現在、世界を代表する博物館に収蔵されています。これらの布は、質の高さによってその後何年もの間、残っており、それらが、熟練した芸術家によってつくられたものであることを示しています。実際、これらの絹の布は、純粋な輝かしい芸術を示すものとなっています。

 

注文の増加により、イランはいくつかの織物工場を作ることになりました。それにはまず、熟練した職人の存在が必要であり、次に、工場を管理する人間が必要になりました。そのため、イランでは、布を織ることを教えるための学校が存在していたようです。

 

 

昔から、イランには織物芸術が存在しました。各地での発掘作業によって、紡績の道具が発見されていることが、それを物語っています。昔から、紡績や染色、布づくりの方法が進歩し、これが最終的に美しい絹の布の生産に至ったことは、ごく当然のことだったといえるでしょう。その点で、宮廷の紡績工場はイランの繊維業において大きな役割を果たし、最も美しい布がそこから出荷されていました。それらは絹と金糸で織られ、刺繍が施されていました。

 

これらの布に施されたデザインで最も多かったものは、狩猟の場面でした。そこには、カモシカやウサギ、カモなど、あらゆる種類の動物が見られました。これらのデザインは、イラン西部のターゲボスターンの岩のレリーフに彫刻されている、皇帝や宮廷の人々の衣服にも見られました。とはいえ、イランの芸術でよく見られるように、宗教的な内容のデザインも見られました。

 

西部の古代遺跡、ターゲボスターンのデザインは、サーサーン朝時代の25枚近い布に見られます。その中で、ホスローパルヴィーズの服を織った布が際立っています。この布には、竜、クジャク、不死鳥スィーモルグがデザインされており、それらは常にサーサーン朝時代の銀の器の中にも見られます。この布のデザインは、時には宗教的な象徴でも飾られています。現在、ロンドンのビクトリア&アルバート博物館とパリの装飾芸術博物館にこのデザインのサンプルが収蔵されています。

 

この他、イラン北部カスピ海南岸で、考古学者によって2枚の布が発見されました。これらの布は、金庫の中にあり、この他に6枚の皿が入っていたということです。主要な皿はもともと、動物や鳥の狩猟の場面を描いた9つの部分から成っていました。このデザインは、これらの2枚の布にも施されています。