9月 13, 2016 16:11 Asia/Tokyo
  • 聖典コーラン
    聖典コーラン

今回のこの時間も、コーラン第25章アル・フォルガーン章識別について見ていくことにいたいましょう。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

アル・フォルガーン章の第63節から76節は、神の優れた僕と、その特徴やしるしについて述べています。これらの節で述べられている性質は、人間の幸福の秘訣となるものです。アル・フォルガーン章の第63節を見てみましょう。

 

「慈悲深い神の特別な僕たちとは、地上において横柄に歩くことはなく、無知な人々に話しかけられた際にも、彼らに挨拶をするような人々である」

 

 

神の僕たちについて述べられている最初の特徴は、自己中心的で高慢になったりしないことです。それは人間の全ての行い、歩き方にも出てしまいます。その人の人格、道徳的な特徴は、その人の言動のあちこちに現われ、その人の歩き方を見れば、多くの性質が分かるほどです。

 

神の特別な僕の特徴の一つは、謙虚であることです。謙虚さは信仰の鍵です。反対に、高慢で尊大な態度は、不信心の鍵と見なされます。高慢で利己的な人間は、宗教の指導者たちの言葉にさえ、耳を傾けようとはしません。彼らは、真理をあざ笑います。彼らの視野は限られています。高慢で利己的な人間が、真理に従い、信仰を寄せることなどあるでしょうか?しかし、敬虔な人間は、慈悲深い神の僕であり、その最初のしるしは、謙虚さです。その謙虚な気持ちが、人間の全身に広がり、その人の歩き方にさえ、そうした気持ちが見られるのです。

 

ある日、神の預言者ムハンマドがある場所を通り過ぎました。そこには多くの人が集まっていました。なぜ人が集まっているのかと尋ねると、そこに、非常におかしな行いをする狂った人物がいるのだと言われました。預言者は彼らを呼んで言いました。「本物の狂った人間を紹介して欲しいだろうか?」 全ての人が口を閉ざして静まり返り、全身で耳を傾けていました。預言者は言いました。「高慢で尊大な態度で道を歩き、常に自分の周りを見回し、脇を肩と共に動かす?(肩をいからせて威張って歩く)人間のことだ。また、人々から何も期待されず、また人々を苦しめる人のことだ。真の狂人とは、このような人間である。だが、あなたたちが見ているこの人物は、ただの病人である」

 

この他、神の僕の特徴は、忍耐強いことです。無知な人々が、この敬虔な僕たちを嘲笑し、誹謗中傷を浴びせたとき、彼らはそれに挨拶を返します。その挨拶は、彼らがそのような言葉を気にとめていないことと同時に、忍耐強いことを示しています。そのような行いは、彼らが無知な人々に対して、同じような行動を取ることはないということを示しています。原則的に、寛容さと我慢強さは、神の僕たちの明らかな性質です。彼らは無知な人々と争うことはありません。そして彼らのふさわしくない言動に対して、尊厳のある態度で接します。このような我慢強さがなければ、誰も、神の僕としての困難な道をあゆむことなどできないでしょう。

 

聖典コーランは、アル・フルガーン章の第64節で、この他の神の僕の特徴として、次のように述べています。

 

「彼らは、主のために夜から朝までをひれ伏し、また起立して過ごす人々である」

 

神の僕は、夜を神への祈祷によって過ごし、神を想い起こし、神の名を唱えることで、心に潤いをもたらします。ひれ伏す姿勢は、至高なる神に対する人間の最高の謙虚さのしるしです。実際、人間にとって最高の位とは、神の僕であることなのです。

 

神の僕たちは、神を畏怖し、常に、復活のことを考えています。アル・フルガーン章第65節と66節には次のようにあります。

 

「彼らは常に言う。『神よ、地獄の責め苦を私たちから遠ざけてください。その苦しみは厳しいものです。地獄とは何と悪い居場所であることよ』」

 

神を、力強い警官のように恐れることで、人間は心の中からコントロールされます。その人は、誰かに監視されていなくても、自らの責務を十分に果たします。と同時に、自分は神に対して十分な義務を果たしていないと見なします。神の僕は、施しを明らかな義務と見なしていますが、同時に、施しをする際、少なすぎることも、多すぎることもありません。彼らは施しをする際にも節度を守るのです。

 

この他、神の僕の特徴には、神以外のものを崇拝しないことがあります。そして、神がその血(流血)を禁じている人間を、正当な理由でない限り、殺害しません。また不義を行うこともありません。誰でもそのようなことをした者には、厳しい懲罰が加えられます。

 

人間を罪へといざなう最大の危険は、欲望です。しかし、敬虔な人間は、自分の本能を抑制し、反抗的な馬の手綱を握ります。多神教信仰、不義、殺害、これらは大きな罪と見なされ、絶対に避けなければなりません。明らかに、それに違反した者には、厳しい罰が加えられます。それと同時に、もしその罪を悔い改め、善い行いを心がければ、その人は神の元へと立ち返らされ、神の慈悲と恩恵に授かります。それが、神の掟です。

 

アル・フォルガーン章の第72節には次のようにあります。

 

「神の僕たちは、無意味な集まりに参加しない。また無意味なことに接した場合には、寛大にそれを見過ごす」

 

実際、彼らは、無意味な集会に参加することも、無意味なものに穢されることもありません。無意味なこととは、理性的な目的のないものです。神の僕たちの優れた性質とは、人生に肯定的な目標を持っていることです。彼らはどのような状況にあっても、建設的で論理的な目標を追い求め、その人生の途中で無意味な事柄に出会ったとしても、それを気にとめずにやり過ごします。彼らは決して、穢れた環境の影響を受けることはありません。この章では続く節の中で、神の僕の別のいくつかの特徴を挙げています。

 

アル・フォルガーン章の第75節と76節では、神の特別な僕たちの特徴を全て述べた後で、簡単な総括として、彼らへの神の報奨について触れています。

 

「彼らは耐え忍んだために、楽園が与えられる。彼らはそこに永遠に留まる。何とよい場所であることか」

 

このような高い地位が与えられるのは、彼らが神の道において耐え忍んだためです。その楽園では、平安が待っています。楽園の人々が互いに祝福しあい、また天使からも祝福を受けます。そして何よりも優れているのが、神からの祝福なのです。