12月 04, 2016 20:34 Asia/Tokyo
  • キューバ・カストロ前議長の死

キューバのカストロ前国家評議会議長は、好意的な人にとっては革命の象徴で、敵にとっては独裁者とされていました。カストロ前議長の死により、キューバの首都ハバナは喪に服しましたが、アメリカ・フロリダ州のリトル・ハバナでは、祝祭となりました。

カストロ前議長の名前は、50年にわたり世界各国の革命家に導きを与えてきました。一方で彼の名は、反対派にとっては弾圧を想起させるものでした。カストロ前議長がキューバで起こした革命に対する、多くの支持者と敵対者が存在します。フィデル・カストロ前国家評議会議長は、1926年にキューバのビランで生まれました。彼の父は豊かな地主で、家族には豊かな暮らしを提供していました。彼は私立学校で教育を受け、ハバナの法科大学に進学しました。

この時期、アメリカの傀儡政権であるバティスタ政権がキューバを支配していました。バティスタ政権は、アメリカの支配下のキューバの圧制と腐敗の象徴でした。この支配体制は19世紀のおわりにキューバが崩壊しつつあるスペイン帝国から分離する以前から始まっていました。この時期、キューバはアメリカに近かったことから、アメリカの歓楽街となっていました。アメリカの資本家はキューバにカジノなどを建設し、キューバを腐敗で満たしました。同時に、キューバのサトウキビのプランテーションやアメリカ向けの輸出により、人々は貧しい中で植民地支配を受けました。一方で、マフィアが半ば自由にキューバで活動を行っていました。

キューバは1902年、表面的にはアメリカから独立しました。しかし、およそ半世紀後も、アメリカの非公式の植民地にとどまり、アメリカはキューバの経済や外交政策を掌握していました。この期間におけるキューバの政権は、アメリカの傀儡であり、歓楽街を整え、アメリカの利益という目的しか持っていませんでした。

最後のアメリカの傀儡政権は、バティスタ政権であり、この政権は1952年に、数年間にわたりキューバの政治に干渉したあと、軍事クーデターを起こすことで政権を掌握しました。キューバの人々は連続的な政治の不安定に苦しみ、クーデターに無関心で、反応を示しませんでした。キューバの人々は、アメリカの植民地主義者と腐敗した政権の圧政下に置かれ、これに屈していたと考えられます。このため、バティスタはこれまで以上に反対派の弾圧と腐敗の拡大を行ってきました。バティスタはアメリカの支援を頼っていたのです。

一方、バティスタも最終的にほとんどの独裁者と同じ運命をたどりました。キューバの政府グループが繁栄を極めていたと思われる時代に、小さな出来事がキューバの歴史の流れを変えました。革命的な人物数十人がグランマ号という船でメキシコからキューバに行き、バティスタ政権を転覆しようとした事件が起こったのです。彼らの一人は、30歳のフィデル・カストロだったのです。

フィデル・カストロはバティスタが政権を掌握する前から、政治活動を行っていました。彼は法科大学の学生であり、革命組織に属していました。1947年ドミニカ共和国で当時のトルヒーヨ大統領に対する蜂起を組織化しましたが、失敗に終わりました。その後、1952年、国会選挙に出ましたが、バティスタによるクーデターが発生し、当時の政権が崩壊したことで、延期となりました。

1953年7月26日、カストロとおよそ150人の同志は、クーデター政権に抗議する中で、サンチャゴ・デ・クーバのモンカダ基地を襲撃しました。これは失敗に終わり、この年の10月、カストロは15年の禁固刑を言い渡されました。およそ2年後、カストロとその弟ラウルは、釈放され、メキシコに追放されました。

カストロのメキシコへの追放により、キューバと世界の運命は変わりました。ここで、カストロはチェ・ゲバラと知り合いました。これにより、バティスタ政権に反対する共通理念を持った、キューバ人の追放者の組織が組織化されました。1956年12月、82人のキューバ人とともにグランマ号に乗り、キューバに入りました。

この集団はキューバ沿岸に上陸した後、バティスタ政権軍と戦闘になりました。この中で、多くの革命の同志が死亡し、生存者はカストロとゲバラの指導の下に置かれました。バティスタ政権軍は革命軍をシエラマエストラ山脈に追いやり、1957年から58年の間、この地域で戦闘が行われました。最終的に人々は革命軍に就き、バティスタ独裁政権はハバナの制圧とともに、1959年崩壊しました。

カストロが同志とともに立ち上げた革命は、独裁政権とその支援者による、長年の貧困や腐敗、国民の自尊心に対する侮辱などへの抗議だったのです。

この期間、キューバの人々は耐えがたい貧困や飢餓に苦しんでいました。キューバの最もよい農地はアメリカの資本化が所有し、肥沃な土地にサトウキビを栽培することで、莫大な富を手に入れていました。キューバの貧しい人々はアメリカの企業の奴隷として働き、アメリカ人が遊興にふけるのを見ているしかありませんでした。生活のために、キューバの若い女性の多くは、アメリカ人のための売春婦となり、キューバ人の男性は麻薬組織で活動するほかありませんでした。

同時に、アメリカの財界や要人に癒着しているわずかなキューバ人と、ほとんどの貧しいキューバ人の社会的格差が頂点に達しました。

1959年1月1日にキューバ革命が勝利し、外国の侮辱的な干渉と国内の不正に対する人々の怒りが結実しました。この革命は正義や福祉、道徳を求める革命でした。一方、アメリカはキューバの革命を弾圧するために人員を送り、これによりピッグス湾事件が発生しました。これを受けて、キューバの正義を求める人々によるナショナリズム革命は共産主義陣営に入ったのです。

キューバがナショナリズム的革命から社会主義革命に移行し、西側と対抗し、東側と協力するまでに長い道をたどりました。キューバは長い間、世界が核戦争突入寸前までいったキューバ危機が発生したほど、冷戦の軍拡競争の中心地だったのです。

東側陣営が崩壊し、キューバは東欧諸国が直面した共産主義の崩壊をまぬがれましたが、一方でアメリカの厳しい経済制裁により、また共産主義的計画の失敗により、大きな損害を強いられました。

2008年、フィデル・カストロは政権を掌握してから半世紀近く経ったあと、国家評議会議長を辞任しました。80歳の高齢に達し、病気にもかかっていたことから、緊迫した政務や長い演説を続けることができなくなったのです。このため、平和的な形で、権力を弟のラウル・カストロに委譲しました。

ラウル・カストロ国家評議会議長は、共産主義を信奉していました。一方で、世界の急激な情勢変化は、キューバの半分閉鎖された社会に影響を与えました。フィデル・カストロが辞任してからの10年間、キューバは政治、経済、社会の各方面での改革が実施されました。現在、経済の個人所有は正式に認められ、アメリカがキューバに対する制裁を解除したことを受けて、外国の投資家に対するキューバの門戸は開かれました。キューバの人々は改革が続くことで、自由と福祉が拡大することを希望しています。キューバ革命が国内外の脅威からおおよそ守られるようになった中で、フィデル・カストロはこの世を去りました。とはいえ、20世紀最後の政界の偉人の残したものは、21世紀にも継承されることになるでしょう。

キューバ革命から55年が経過しました。この期間、キューバは社会的に、文化的に目覚しい発展を遂げましたが、いまだに多くの政治的、経済的問題に苦しんでいます。その一部は国内の問題に起因しており、残りの一部はアメリカの敵対政策と、半世紀にわたる西側の対キューバ制裁によるものです。こうした中で、キューバ革命は、多くの正義を求める運動や世界中の革命に導きを与えており、革命の父フィデル・カストロが他界した今もなお、それは絶えることはありません。