アルキャビール大モスク
イスラム初期の時代には、メディナにやってきたものの、居住場所のなかったイスラム教徒たちは、モスクに身を寄せていました。今回は、この問題についてお話するとともに、後半ではイエメンの首都サヌアにある、アルキャビール大モスクをご紹介することにいたしましょう。
前回の番組でお話したように、モスクの主要な機能が神への礼拝である一方で、ほかにも、モスクは宗教的な訓話や説教、コーランの朗誦といった一連の宗教活動に加えて、宗教的な儀式の開催やお篭りなどのためにも相応しいとされています。
イスラムのあけぼの時代には、メディナにやってきたものの、住む場所のなかったイスラム教徒たちは、モスクに身を寄せました。彼らは、預言者のモスクの北側の部分に当たり、しかもモスクの外側に出ていた屋根つきの箇所で、アラビア語でテラスやそれに近い物を意味する、ソッファと呼ばれるところに住んでいたのです。
このため、これらの人々は、次第にスッファの友として知られるようになり、来世の事を考えるためにあえて貧しい状態を受け入れ、現世での表面的な豊かさを手放すようになりました。彼らはまた、灼熱の太陽の日差しを避けるため、日中は日陰に身を潜めていましたが、夜になるとモスクの敷地内のどこでも好きなところで就寝することができました。
既によく知られているように、モスク、あるいは神の家には、冒されざる尊厳や威信があり、不要不急の場合でなければ、モスクという聖なる場所で寝泊りすることは差し控える必要があります。言うまでもなく、メッカのカアバ神殿や預言者のモスクなどのように、モスクとしての格式が高くなればなるほど、その場所で寝泊りすることはより忌み嫌われる行為とされます。
しかし、ここで考慮すべき事は、先にお話したソッファの友と呼ばれる人々が預言者のモスク内で寝泊りしていたことは、モスクでの寝泊りは好ましくないとするイスラムの戒律に反していない、ということです。それは、スッファの友とされる人々が、自分の住んでいた住居をはじめ、自分の町や部族内での地位や名誉をも手放し、メッカからメディナへの聖なる移住の後、あえて貧困を受け入れてイスラムに入信したことによります。このため、彼らがモスクに寝泊りしていたことは、緊急に身を寄せる必要がある場合に含まれる例外とされます。
モスクは、貧しい人々や、見知らぬ土地からやってきた人々が身を寄せる避難場所でもありますが、決して他人に助けを求めたり、乞食や物乞いをする場所ではありません。預言者は、モスク内のスソッファと呼ばれる場所に住んでいた人々や、そのほかの一般の貧民に対し、モスク内での物乞いを禁じていました。
数多くの伝承においても、モスクやその他の人々の集まりの場で物乞いをしたり、公然と人々に助けを求めることは強く非難されています。それは、モスクが礼拝や祈祷、コーランの朗誦といった特別の行為のための場所だからです。このため、礼拝の合間やそれ以外の場合であっても、モスク内での物乞いは、モスク内の状況として相応しいものではありません。
もっとも、集団礼拝の説教師、あるいは善良な人々により、恵まれない人々への支援や慈善事業への利用を目的に、モスク内で信者たちに対し寄付や施しが募集されることは差し支えありません。それは、こうした行為が物乞いではなく、同胞たちに対する支援とみなされるからです。
それではここからは、世界にある重要なモスクの1つとされ、イエメンの首都サヌアにある、アルキャビール大モスクをご紹介することにいたしましょう。
歴史的な伝承によれば、偉大なる預言者は西暦630年、メッカを征服する前に現在のイエメンの首都サヌアの旧市街に、アルキャビールモスクを建設するよう命令を出したとされています。複数の歴史家の見解では、預言者はモスクの敷地の範囲や、メッカの方角を示すキブラの方向までも、正確に明示していたとされています。
このため、アルキャビールモスクは、イスラム時代における最も古いモスクの1つとされ、イエメンに建設された初のモスクと言えます。考古学的な調査からも、このモスクには建設されて間もないころの時期のものとされる数多くの部分が、今なおそのまま残されていることがわかっています。
一部の考古学者の見解では、このモスクは、サヌア市内のガムダーン宮殿の廃墟の脇に建設されたと考えられています。ガムダーン宮殿は、イエメンにある有名な宮殿の1つであり、中にはこの宮殿が預言者ソレイマーンにより 、アラビア半島南部にあったシバ王国の女王で、シバの女王として名高いビルキースのために建設された、と考える人もいます。
7世紀から8世紀にかけて栄えた、イスラム史上初の世襲王朝であるウマイヤ朝の6代目の為政者、ワリード1世は、707年にサヌアにある大モスクを拡張しました。その後も、時代を経るごとに、このモスクの増築作業が行われました。
このモスクは、サヌア市内のほかの建物と同様に、壁や窓枠の周りの部分は、白く塗られたレンガでできています。現在の形になっているこのモスクの天井は、11世紀と12世紀のスタイルにルーツを持っていますが、一部の例外を除いて、全体的には完全に古い構造であり、このモスクが最初に作られた当時の構造がそのまま残っています。
サヌアのアルキャビール・モスクには、2本のミナレットがあり、それらはいずれも12世紀に再建されました。また、このモスクには3つの大きな図書館もあります。これらの図書館には、イスラムに関する内容やコーランを筆録した珍しい写本の一部が収蔵されています。
戦争などの忌まわしい出来事の影響により、イスラム圏内にあった大規模な図書館の多くが破壊されたことから、特にイスラム初期の時代から残るコーランの写本をはじめとした、手書きの写本は極めて珍しいとされています。しかし、サヌアの古い大モスクには、古いコーランの様々な写しとされる、およそ1万5000枚のなめし皮が収蔵されています。
これらの貴重な収蔵品は1972年、サヌアの大モスクのうち、大雨の影響で崩落していた西側の部分の改修工事の際に発見されたものです。この時に、作業員らは、モスクの天井と屋上の間の部分に、コーランの古い大量の写本が存在していることに気づきます。
これらの大量の写本には、シーア派初代イマーム・アリーのほか、預言者ムハンマドの教友の1人ザイド・イブン・サービト、そしてペルシア人として初めてイスラムに入信した、預言者のもう1人の教友サルマン・アル・ファールスィーのものとされるコーランの写本があります。これらの写本はいずれも、150ページにおよび、イスラム書道の書体の1つであるクーフィー体により、しかも母音記号がない状態で筆録されています。
ユネスコは、サヌアの大モスクで発見された、日付のある写本の一部をCDに収め、記憶遺産として発表しました。このCDでは、イスラム初期の100年間のものとされる、クーフィー体などによる40点以上のコーランの写本が紹介されています。
中東学者の中には、コーランの内容は時代とともに変化した、と主張する学者も存在していました。しかし、彼らはサヌアの大モスクで発見されたこれらの写本を閲覧したことで、コーランが千数百年という長い年月の間に、全く内容の加筆・削除や訂正などの改変がなされていない、という結論に達したのです。このことも、サヌアの大モスクをめぐる事実として、注目すべき事柄といえるでしょう。
次回もどうぞお楽しみに。