May 22, 2018 23:09 Asia/Tokyo
  • コーラン第35章ファーテル章創造者
    コーラン第35章ファーテル章創造者

今回からは、コーラン第35章ファーテル章創造者に入ります。

慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において

 

この章は全部で45あり、メッカでイスラムの預言者ムハンマドに下されました。ファーテルとは、もともと切り裂くものを意味しますが、ここでは創造者の意味であり、神の性質を表しています。

 

 

ファーテル章の第2節を見てみましょう。

 

「神が人々に与えられるあらゆる慈悲を、誰も阻止することはできない。また神が拒むものを神以外のものが送ることはない。神は英明で偉大な方であられる」

 

あらゆる慈悲は神の御許にあり、神は誰でもふさわしいと考える者にそれを授け、いつでも英知が必要としたときに、その扉を開きます。もし世界の人々が共に手を取り合い、神が開いた扉を閉じたり、神が閉じた扉を開いたりしようとしても、決してそのようなことはできません。

 

慈悲という表現には幅広い意味がありますが、世界のあらゆる恩恵を含みます。精神的なものもあれば、物質的なものもあります。そのため、時に人間は、表面的な扉が完全に閉じられ、なすすべを失ったときに、神の慈悲が心に息づいているのを感じます。そのため、どれほど苦しい生活を強いられようとも、喜びと満足を得るのです。一方で、時に人間は、すべての扉が開かれていたとしても、神の慈悲の扉が閉じられていると感じ、世界はこれほど広いのに、自分にとっては暗い牢獄のようだと感じることがあります。これは多くの人に明らかな現象です。

 

いずれにせよ、この節の内容に注目することは、敬虔な人間に大きな安心感を与え、あらゆる出来事に対する忍耐を養うと共に、いかなる問題をも恐れず、あらゆる成功に高慢になることもありません。

 

ファーテル章は、唯一神を称賛し、世界における神の偉大さのしるしを述べ、天と地を創造し、すべての存在物に日々の糧を与える、神の力と英知を思い起こさせています。

 

コーラン第35章ファーテル章創造者

 

ファーテル章の第3節を見てみましょう。

 

「人々よ、神があなた方に授けた恩恵を想い起しなさい。神以外に、天と地からあなた方のために日々の糧を与える創造主があるだろうか?」

 

 

ファーテル章の第4節は、重要な問題に触れ、次のように語っています。

「最後の審判、行いの清算、天国と地獄は、全能で英明な神からの決して損なわれない約束である。だから決して、現世の生活に欺かれ、現世の魅惑的な事柄によって、神の偉大なる約束を忘れてはならない」 

また、ファーテル章の第6節では、悪魔はあなた方の明らかな敵であるから、あなた方も悪魔を敵と見なしなさいと警告しています。悪魔は誘惑し、人を欺く存在だということを人間が忘れたとき、迷いに陥り、真理から遠ざかります。ファーテル章の第9節を見てみましょう。

 

「神は風を送り、それによって雲を作らせる方である。それからそれを死んだ大地に運び、それによって、大地を枯れた後、よみがえらせた。復活とはこのようなものである」

 

 

実際、風の動きと雲の誕生、その後に雨という恵みが降り、死んだ大地がよみがえることは、計算しつくされた秩序であり、この流れの中にある英知ある力が、それを導いていることを示しています。ファーテル章の第10節は、自分たちの誇りを偶像に求めていた多神教徒たちの大きな過ちに触れ、次のように語っています。

 

「誰でも誇りを求める者、すべての誇りは神のものである」

 

なぜなら、神のみが、失敗や敗北を免れた存在であるからであり、真の誇りは神の御許にあるのです。

 

この節は続けて、誇りに到達する道は、清らかな言葉と信条にあるとし、それは善い行いと共に人間を向上させ、誇り高くするとしています。これこそ、成長と向上の道です。その後、これとは正反対の事柄に触れ、悪巧みをする人は、厳しい責め苦が待っており、彼らの堕落をもたらす穢れた努力は消え去り、実を結ぶことはないとしています。

 

ファーテル章の第12節と13節は、神の英知溢れる力に触れています。

 

「2つの海は同じではない。一つは甘くて透明であり、おいしい飲み水となる。もう一つは塩辛い。だが、あなた方はその両方から新鮮な肉を食べ、装飾品を採取し、身につける。またそこに船を見るだろう。それは波を切り裂き、あなた方が神の恩恵を利用できるようにするためのものである。恐らくあなた方は感謝するであろう」

 

2つの海は大きく異なっていますが、それら2つの海から新鮮な肉を食べ、そのどちらからも身につけるための装飾品を採取します。また、船で海を切り裂き、それによって商品を移動させることもできます。これらは、神の恩恵を利用し、神に感謝させるためのものなのです。

 

ファーテル章の第13節は、神の無限の恩恵に触れ、人間にそれを知らせると共に、感謝の心を持たせようとしています。

 

「神は夜を昼の中に埋もれさせ、昼を夜の中に差し込ませる。また太陽と月を従わせ、それぞれは決められた、移動する」

 

これらの現象は皆、人間の利益のために動き、人類の生活の様々な恩恵の源となっています。太陽と月は完全に秩序に従って自転し、決められた、その動きを続けます。月と太陽の存在、それらの計算しつくされた動きは、世界を管理する神の明らかなしるしなのです。この節は続けて、この問題を次のように結論づけています。

 

「これが神、あなた方の創造主である。大権は彼のみに属する。あなた方が神の代わりに求めるものは、ナツメヤシの種の皮さえも持っていない」

偽りの崇拝の対象は、世界において、ナツメヤシの種の薄い皮ほども、利益も損害も持ち合わせていません。それなのにどうして、あなた方のために何かをしたり、問題を解決したりできるのかと問うています。

 

 

ファーテル章の第15節を見てみましょう。

 

「人々よ、あなた方は皆、神を必要としている。神のみが、何ものをも必要とせず、称賛に値する方である」

 

創造世界のすべてにおいて、本当に何ものも必要としないのは、たった一人、至高なる神のみです。すべての人間、世界の存在物は皆、創造主に属し、他を必要としており、神はあらゆる点から何ものも必要としていません。神は目に見えない存在であり、すべての創造物は神に属します。神はあらゆる点から無限の存在です。神は豊かでもあり、また称賛に値する存在です。つまり、何ものをも必要としないと同時に、非常に寛大であり、あらゆる称賛に値するのです。そのため私たちは、神を崇拝することで、向上の道を歩み、その神という存在に自らを近づける必要があるのです。

 

ファーテル章の第19節から22節は、不信心者と敬虔な人間は同じではないとし、その例の中で、コーランの視点からの違いを示しています。

 

 

「目の見えない人と見える人は同じではない。暗闇と明るい場所も。影と焼け付くような風も。生きる者と死ぬ者も同じではない」

 

信仰は人間に、思考や行動における光と知識をもたらしますが、不信心は暗闇です。また、暗闇は、迷いと停滞の源です。しかし、光や明るさは、生きることや躍動の源です。敬虔な人間は、信仰によって、安全と安らぎを得ますが、不信心者は苦悩に焼かれます。

 

これらの節は、4つの例を挙げ、敬虔な人間の人格や運命を不信心者のそれと比較しています。信仰は個人や社会に生を与えますが、不信心はその衰亡の要因となります。敬虔な人間は成長と向上に向かいますが、不信心者は無知と偏見の闇のために、真理の道に向かうことができません。

 

ファーテル章の第28節は、神の僕たちのうち、賢い者だけが神を畏れるとし、第29節には次のようにあります。

「神の書物を朗誦し、礼拝を行い、日々の糧として与えられたものの中から、密かに、または明らかに施しをし、商売に希望を持つ者は、決してそこに消滅や衰亡はない」

 

この節は、真の賢い人間の姿を述べているようです。彼らはコーランに親しみます。礼拝を行い、明らかに、また密かに施しをして、恵まれない人々を助けます。彼らはこのような善い行いによって、神との利益のある取り引きを行い、救済に希望を持つのです。

 

ファーテル章は、この問題を次のように結論づけ、第45章で次のように語っています。「もし神が、人々の行いにふさわしい罰を与えれば、地上にはいかなる生き物も残らないだろう。だが神は彼らに猶予を与える。そしてその期限がやってくるとき、神は僕たちの状態を知っておられる」(了)