コーラン第36章ヤースィーン章(2)
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コーラン第36章ヤースィーン章
今回もコーラン第36章ヤースィーン章を見ていくことにいたしましょう。
慈悲深く、慈愛あまねき、神の御名において
ヤースィーン章では、唯一神信仰と復活の問題が提起されており、それらは、神の使徒たちによる多神教信仰や偶像崇拝との戦いの後に述べられています。まず、生の中に見出すことのできる、唯一神信仰の根拠が、ヤースィーン章の第33節から36節で語られています。
「死んだ大地は彼らにとって明らかなしるしである。我々はそれを蘇らせた。またそこから芽を出させ、彼らはそこから栄養を取る。我々はそこにナツメヤシやブドウの庭園を置き、泉を沸き立たせた。その果実と彼らの手が作り出したものの中から食べるがよい。それでも彼らは感謝しないのか?神は無謬の存在である。神は、大地に生えるもの、彼ら自身、そして彼らが知らないことから、全てのオスとメスを創造した」
生の問題、それは創造世界の複雑な問題の一つであり、世界の学者たちを驚かしています。科学の大きな発展にも拘わらず、未だに誰も、どのようにして、魂のない存在物が生きた細胞に変わるのかをきちんと理解できていません。未だに誰も、植物の種やその内部の層がどのようにできたのか、また一体どのような法則によって、条件が整ったときに動き出し、成長を初め、それによって死んだ分子をひきつけ、生きた細胞に変えるのかを知る者はいません。
植物や動物の世界における生、死んだ大地の蘇生は、この世界の創造において、大きな知識が用いられたことを明らかに証明するものです。これらの節は、春という季節、植物の生育を、死人が蘇る復活の根拠と見なしています。また、人間の食事の大部分は、植物が占めており、この現象を注意深く見ることは、神を知るための道だとしています。コーランはここで、果物の中から、ブドウとナツメヤシの名を挙げています。それは、この2つの果物が、栄養価の高い完全な果物の代表であるためです。研究によれば、この2つの果物は、人間の体が必要とする栄養素やビタミンを含んでいます。
次の節は、この木々の創造の目的について次のように述べています。その果実を食べなさい、とされているのは、完全な食事として、木になる果実は、その木からもぎとることで利用できます。これは、神の慈悲と寛容さを人間に示しています。とはいえ、人類は、これらの果物の一部から加工品を生産し、様々な目的に使用します。様々な恩恵が挙げられる目的は、人間の中に感謝の気持ちを起こらせることです。なぜなら、恩恵への感謝は、神を知るための第一歩であるからです。コーランの科学的な奇跡の一つは、あらゆるものにおけるオスとメスのつがいの法則です。今日、科学によって、植物の世界のつがいの問題は、一般に知られるところとなっています。
天の現象も、神の偉大さのしるしです。コーランの節は、独特の方法により、自然の驚異を明らかにしています。ヤースィーン章の第37節から40節を見てみましょう。
「また彼らのためのしるしに夜がある。我々はそこから昼を退かせる。すると突然、暗闇が訪れる。太陽もしかる場所に動く。これは全能の神の定めである。我々は月のためにさまざまな場所を作り、ナツメヤシの乾いた枝のように曲がるようにした。太陽が月に追いつくことも、また夜が昼に先立つこともない。それぞれが決められた軸に沿って浮いている」
太陽の光りはいたるところに降り注いでいますが、それを取り除くと、突然、暗闇が広がります。人間は夜の闇の中にまぎれるとき、昼や光の恩恵を思い起こし、光りと闇の創造者のことを思い出します。この節が次に触れているのは、明るさと太陽です。太陽もまた、人々にとって一つのしるしであり、常に決められた場所へと動いています。この節は、太陽の継続的な動きを明らかにしています。太陽には、自転や公転など、いくつかの動きがあります。いずれにせよ、この広い宇宙空間で、これほど大きな惑星を規則的に動かすのは、一体誰でしょうか? 全能の神以外に、そのような力を持つ者は存在するでしょうか?
月の初め、月の2つの先は上を向いていますが、次第に月の表面が広くなり、14日目には完全な円形になります。その後、再び徐々に小さくなり、最後の夜には、色の薄い細い形になり、その両先は下を向き、ナツメヤシの枝のようになります。月が1ヶ月をかけて通る場所は、完全に計算しつくされた正確なものです。天文学者は、数百年前から正確な計算により、月の動きを予想することができます。この驚異的な秩序は、天の自然の暦であり、神はこの、1ヶ月ごと、あるいは1年後との正確な暦を、人間に様々な問題を調整させるためのものとしています。
これらの節は、太陽暦と太陰暦に触れ、地球と太陽、月の動きは非常に正確であり、全能で全てを知る存在を示しています。

次の節は、この年月や夜と昼の秩序の安定と継続について語っています。
「太陽が月に追いついても、夜が昼を追い越すこともない。それぞれが決まった軌道に浮いている」
実際、太陽と月の軌道は、それらが急速に動いていても、決して衝突したり、夜と昼の秩序が混乱したりすることがないように調整されています。これらは皆、全知全能の創造主のしるしなのです。
原則的に、不信心者は復活を否定する根拠を持っていません。しかし、最後の審判はいつくるのか、という疑問を提起することで、それを嘲笑しています。そのことはヤースィーン章の第48節にあります。次の節は、この質問にしっかりと答えています。「この世の終わりは、神にとって複雑な問題ではない。彼らは、自分たちが戦争や対立に夢中になっている間に、天から大きな音が降り、彼らを突然、包み込む」 この大きな天からの音は、一瞬のうちに、その場所で、その状態のまま彼らを滅ぼし、彼らの物質的な騒々しい人生は、突然、消えてなくなります。これは本当に一瞬のことであり、遺言を残したりする力はなく、家族に会ったり、自分の家を見に行ったりする機会さえありません。
そのとき、再び大きな音が聞こえます。そして突然、全ての人が墓から出され、急いで主の裁きの場所へと向かいます。そのとき、復活を否定していた人々はこう言います。「彼らは言う。『ああ何ということか。誰が私たちを眠りの場所から蘇らせたのか?』」 これは慈悲深い神が約束していたことであり、神の預言者たちは本当のことを言っていました。コーランはその後、この叫びが起こるのがどれほど速いかを説明するため、次のように語っています。「その音は単なる合図であり、大きな音である。そして、誰もが我々の前に立つ」 最初の音は死の叫びであり、次の音は生の叫びで、神の裁きの場所に立つことです。その日は、誰もわずかでさえも圧制を受けることはなく、彼らが行ったこと以外の報いを受けることはありません。ヤースィーン章の第55節から先は、天国の人、地獄の人の状態について説明しています。
実際、ヤースィーン章の節の一部では、復活に関して重要な点が提起されています。コーランでは、死後の世界と人間の行いが永遠のものであることを信じることは、人間の精神に大きな影響を与え、人間に善を勧め、悪を否定する上で効果的な要素とされています。コーランによれば、死は滅亡を意味するのではなく、再び生まれ変わり、より広く大きな世界に踏み出すための一歩なのです。
一人の多神教徒の男が、腐った骨を手に持ち、「この骨で預言者ムハンマドと議論し、復活に関する彼の言葉を無効にする」と言いました。この男はその骨を預言者のところに持って行き、「誰がこの腐った骨を蘇らせることができるか」と言いました。ヤースィーン章の第78節とその先の数節は、この質問に対する強力かつ論理的な回答を与えています。まず、人間を自らの生の始まりに注目させ、考えるよう呼びかけています。
「人間は、我々が彼を精液から創造したのを見なかったのか?この無力で弱い存在は大きな力を得、神の導きに対する反抗に立ち上がり、自分の過去と未来を忘れるようになった。人間の無知には、腐った骨から我々のために例を挙げるだけで十分である。もし人間が自分の創造を忘れておらず、精液がどれほど取るに足らないものであり、完全な人間になるために、毎日、我々が生命の新しい衣を彼らにまとわせているのを見れば、そのような無意味な根拠に頼ったりはしていなかっただろう」
ヤースィーン章の第81節は、全ての人を神の無限の力に注目させ、次のように語っています。
「天と地を創造した者に、それらと同じものを創造する力がないのだろうか?いや、[可能である。]彼は全能の創造主である」
(了)